2011.10.31 

第1話 幼き頃の苦悩が教えてくれた「笑う門には福来る」

 「あなたはご両親とは気が合わず、しばしば意見が合わないことがあるでしょう。そのため、誤解やすれ違いが多いはずです。でも、あなたはご両親にいい愛情を持ち続けています」
 
 インド人のヒンディー語をもう一人のインド人が英語に訳し、それを日本人の通訳の方が日本語にするという形で、この言葉が伝えられました。誰も知るはずのない、多分両親も気づいてはいない遠い心の記憶を、初めて出会ったインド人にズバリと言い当てられたのです。

人は、自分のことをわかってもらえたと感じたとき、ある種の感情が込み上げることがあります。一生、誰に話そうとも思わなかったどうでもよかったはずのこと…。それをそっと手に取って見せられたとき、なぜか報われたと感じ、そう思う自分に驚きました。

もういいやと幼い頃に諦めて、とうに忘れてしまっていたことなのに。でも、喉元まで込み上げた感情の塊が、ただ忘れていたわけではないということを伝えてくる。そう、私は父と母にもっと自分をわかってほしかった、そして、そんな彼らをずっと愛してもいる。

「あなたには一人か二人の弟か妹がいて、そのご兄弟とも意見が合わず、そのためすれ違いが多いでしょう。しかし、あなたはご兄弟にいい愛情を持ち続けています」

どうしてそんなことがわかるのだろう。私には弟と妹がいて、二人ともとても大切で、可愛いと思っていました。でも、弟とはいつも喧嘩になってしまう。年の離れた妹はなぜか寄り付かないという子供時代。でも、二人が大好きで、喧嘩しながら、そっけなくされながらも一緒にいたものです。

誰が知るはずもない心の記憶を、遠い異国の人に言い当てられるなんて。たまたま機会があって見てもらったインドの占星学で、思わぬ心の引き出しを開けられたのでした。

 

父は高校を卒業して、大手企業に就職しました。それはもう猛烈社員だったのだと思います。次々と最年少記録を塗り替えながら出世をして、代表取締役も務めました。愛情深く、善良な人ですが、激しやすい性格で、私たちが成長し、父の出世が進むにつれ、会話を交わす時間はなくなり、だんだんと距離ができていったように思います。

まだ小学生だった頃、父の会社の運動会があり、家族で出かけた時のことでした。座っていると次々と父の部下の方がご挨拶に来てくださるのですが、皆が皆、去り際に小さな声で「お父さん怖いでしょう?」と聞いてくるのです。「怖くはない」と答えると、「え? 本当に?」と驚く人もいました。その時、心の中で「確かに怖い人かもしれないけど、私はパパの子供なんだから怖いわけないじゃない」と心の中で唇を尖らせていたのを覚えています。

そんな父に影となりついていく従順な母、父を怖がっているように見える弟と妹。家の中で反論するのは私だけでした。怖いからと言って自分の正論を曲げることはしたくないと、時々生意気に口答えする私を、父はいつも怒りながら、ときに苦笑いしながら、結局は黙って許してくれていました。

幼い頃は、自分の感情の変化について行けずに苦しい時期もありました。夏休みに従兄弟の家に何泊かして仲良く遊び、本当に楽しく、親しくなった頃にお別れの時が来ます。あんなに毎日が楽しかったのに、急激に寂しくて悲しくてやり切れない状態になる。


 我が家が遠くへ引っ越しをして、祖母にももうあまり会えなくなってしまうとなったときは、さよならするのが辛くて、2ヵ月くらい塞ぎ込み、あまりの心の苦しさに、本当に床でゴロゴロとのたうっていました。そんな私を母ももてあまし、困り果てていたようです。

「ご両親、ご兄弟とも気が合わないでしょう」と簡潔に説明された今だからこそ、冷静に自分の立ち位置を受け止められますが、まだ幼い私にとって、人となんの摩擦もなく、ただ楽しい時間を過ごすということは稀に感じる幸福だったのかもしれません。それを与えてくれる従弟や祖母とのお別れは、本当に心が千切れるようなことだったのでしょう。

こうして理屈がわかれば人間、随分とらくにもなれますが、まだ、自我さえ目覚めていない幼い子供には、いつの間にか立ち込めた暗雲のような寂しさにどう対処したらいいのかわからず苦しんだのです。よく母に自分の心が苦しいと訴え、助けを求めましたが、「困ったね。そんなことを言われてもママはどうしていいのかわからない」と返されるばかりで、お互いに困っていました。

では、こうした境遇の子供が皆、私のようになるかと言えば、当然その限りではありません。ある子は、自分の好きな玩具などの世界に没頭して、環境の変化を乗り越えるかもしれませんし、ある子は、こういったことで感情が苦しむことはなく、なんとなく順応していくのかもしれません。

そんな中で、私が人との別れに対して非常にセンシティヴであったことは、自分の魂のテーマが愛だからではなかろうかと思います。これまでの人生を振り返っても、一番大切だと感じてきたのは人間関係であり、愛を感じることができないと辛かったのだと思います。それ故に人との交流を避けていたような時期さえありました。

今ではこのようにさらりと自己分析もできますが、自分のテーマが愛であるということに辿り着くまでには、多くの時間と経験を要しました。そして人生半ばを迎え、得たことは、生きていく上で本当の意味で目を開き、知っていくということが、その歩みを支えるということです。

人は見えないもの、知らないこと、理解できないことに対して恐れを抱き、時に苦しみます。人間関係も然りで、ぼんやりと、でも自分自身を知り、この世の仕組みが見えてくれば、同じ出来事でも受け止め方が変わり、そうしてその人の世界は変容していきます。

 他人や環境を変えることはできなくとも、自分自身の心を変えることで世界は様変わりするのです。このことが明確になってきたとき、私たちは先人の言葉に深く頷くようになり、そして、真理に根ざした智慧を求めるようになるのだと思います。

愛をテーマに“そのままを生きる”ことは、恐ろしく、危険なことです。まるで西部劇の世界へ、丸腰で入っていくようなものだからです。それでも愛のままに生きる勇気ある人がいます。それは多くの場合、まだ純粋で世間を知る前の子供です。もちろん、勇気を持って愛を貫く大人もいます。私の知る限りそれをやり切っている方はごく少数に感じられますし、だいたいのところ皆さん血まみれボロボロ。

こんなふうに言えば愛をテーマに生きることを否定しているように聞こえるかもしれませんが、その勇気は輝き、その人が愛として自分自身を使い切ったとき、生きる世界は調和に満ち、信頼関係が硬く結ばれ、喜び多きものとなります。

 しかし、そこまでの道のりは実際、かなりヘビィであり、途中丸腰で生きることを止め、何かで武装したり、自らの愛を隠してしまうことさえあるのも事実なのです。

では、私はと言えば、そんな幼い日々の中、毎晩ベッドに入るとどう生きればいいのかということを悶々と考えていました。一人考え続ける以外に当時自分を救える方法はないと感じていましたし、実際そうだったと思います。そうして幾日かして幼いながらも考えをまとめてみました。

 楽しい時間や幸せはどんなに大きくても必ずそのうちになくなってしまうものなのだ、人生って時々ちょっと幸せで、あとは幸せではない長い時間が延々と続くものなのだと。こう自分に言い聞かせることにしたのです。

しかし、自ら定義した“たまに幸せで、あとはずっと不幸”というこれからの人生を想像してみると、まだ見ぬ道のりにうんざりとしてしまいました。うーん、いやだなぁ。私はまだ子供なんだから、これからかなり先が長い。そう考えて途方に暮れました。人間ってずっとこんななのかなぁ…。たまらない気持ちになりました。これはなんとかしなければならないと、さらに考えてみることにしました。

そうだ! こうなったら楽しい時にうんと楽しんでおこう。どうせ幸せはすぐに消えてしまうとわかったのだから、急に幸せがなくなっても、もうショックを受けることはないってことじゃない? ただがっかりしないように気をつければいいだけなのかも、とある時軽く考えてみることを思いついたのです。それはほとんど開き直りでした。

面白いことに、そう考えるようになると穏やかで楽しい時間が徐々に増えていき、私の中の幸せと不幸のコントラストは和らいでいったのです。そうして幸せな時間も案外少なくはないと思えるようになり、小学4年生になる頃には毎日学校で笑い転げながら過ごすようになっていました。きっと少しずつ、愛に傷つきやすい心を守る術を自分なりに身につけ、免疫力のようなものを上げていったのでしょう。荒野の西部に丸腰で出て行っても手馴れた様子で応急処置ができるようになったのかもしれません。

小学4年生からは、学校へ通うのが毎日楽しみでなりませんでした。とにかくゲラゲラと笑う日々でした。笑う人には笑いが集まってきます。子供は素直で単純ですから、楽しそうだな、と感じればそういう質を持った子たちはあっという間に集まって来るのです。そんなふうにして、自分の生活の中の楽しい時間とそうではない時間のバランスをとっていたのかもしれません。そして、一日の中で楽しく笑う時間が長ければ、少々不愉快なことがあっても吹き飛んでしまうようになったのです。

ちなみに、面白いことに気づきました。この小学4年生の大チェンジをインドの哲学であるアーユルヴェーダの知識や、中国の易学が説明をつけてくれたのです。

 アーユルヴェーダの知識では、生まれたばかりの子供はタマスという“覆う質”が優勢で、そのため自我が覆われており、周りも見えませんが、成長に従ってこのタマスの質がだんだんと取り払われてくると言います。そして、ちょうど9歳の小学3〜4年生のときに“ラジャス”という活動の質が増してきて、自我に目覚め、「私」という感覚を強く持ち始めると言われています。

 易学でもやはり9歳の小学3〜4年生になったとき、それまで支配的であった月命星の影響が弱まり、その人本来の本命星の姿が現れると言うのです。

非常にセンシティヴであった泣き虫な私が、別人のように明るく強くなった年齢と、これらの知識が指し示す心の変換期が一致しているのは興味深いことでした。変わるべきときにそれは起こったと言えるでしょう。しかし、もっと注目するべきポイントは、私が軽く、明るい心のありようを選んだというところです。なぜなら、易学によれば、もともとそういった選択をする傾向が少ない星を持って生まれてきており、それは自分でも思い当たるところだからです。

このように、人にはどうにも変えられない宿命があるということも突きつけられるわけですが、同時に、自分がどう生きるのかということについては、生まれ持った傾向とたとえ違う方向性であったとしても、それを自由に選択することができる“運ぶ運”すなわち運命も備わっているということです。

物事の捉え方を変えて、笑いのビタミンを摂り入れることに成功した子供時代は、環境ではなく、自分がその世界をどう見るのかによって、光が当てられ、また、大きく変わるのだということを、今になってより深く私自身へと伝えてくるのです。

志あるリー ダーのための「寺子屋」塾トップページへ