2011.11.14  

第2話 喜怒哀楽の分量。「泣く」について

 

人には喜怒哀楽の感情がありますが、当然どの感情も否定されるものではありません。これは人にとって必要な心の活動であり、反応、またはある種の結果とも言えるものです。

 喜と楽は笑い、怒は怒る、哀は泣くという表現に繋がります。この心が作り出す「笑う」、「怒る」、「泣く」という行為は、人にとって実に重要な働きをするものだと思うのです。

まだ私が中学二年生だった頃、ある日ふと気づいたことがありました。随分と長い間自分は涙を流して泣いていないと。どのくらい泣いてないのかな、と記憶を辿ってみると涙を流して本格的に泣くということが4年くらいはないと気がつきました。次にそれはなぜかということを時系列に沿って探ってみると、自分にとって涙を流して泣くほどのことが、4年くらい起こっていなかったのです。

泣くほどのことがない平安な日々…。「それは有難いと思っておいたほうがいいんじゃない?」と、心のなかで声が聞こえます。「そうね、そう思う」。「…でもね、なんだか4年も涙を流していないことがあまり快適ではないというか、何か押し出したいものがあるような、そんな気持ちの悪さが胸の中でモヤモヤとしているみたい」。もう一つの声がこう言いました。しかし、泣きたくもないのに泣けるものではありません。

そんなある日、家の書棚で高村光太郎さんの詩集「知恵子抄」が目に留まりました。なんとなく手に取ってパラパラと頁をめくっていくと「レモン哀歌」という詩があります。ちょっと読んでみようかな。こんなふうになんとなく読み始めるとそこには、ぞくっとするようなリアリティの中に高村光太郎と知恵子の世界があり、今、まさに消え逝こうとする命と向き合う、二人の別れの瞬間が、鋭い刃物で切り取られたように描かれていたのです。

「レモン哀歌」      高村光太郎

そんなにもあなたはレモンを待ってゐた

かなしく白いあかるい死の床で

私の手からとつた一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズ色の香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

私の手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういう命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関はそれなり止まつた

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光つレモンを今日も置かう

「あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」
この一節が胸に突き刺さり、

 「私の手を握るあなたの力の健康さよ」
という一節に打ちのめされ、

  「かういう命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり

 「生涯の愛を一瞬にかたむけた」
というところに来て号泣。

生と死の狭間で煌めく命。そこにはまだ確かに光があるというのに、どうにも避け難く迫る死。今という瞬間と永遠が交差するさなか、目を見開き、智恵子との最後のお別れの時を受け止める高村光太郎氏の愛と哀。時に人生が抱える憂いとは、こんなにも深く、痛いほどに美しい。
 
 こんな哀しみが、まだ思春期で無防備な14歳の心にいきなり切り込んできたのです。驚きと共においおいと泣きました。4年ぶりにたくさんの涙を流し、声を上げて。

しばらく「智恵子抄」という本を持ったまま、呆然と座り込んでいました。こんなふうに生きた人がいる。

 私は能天気だなぁ。平和だなぁ。

 そして、ふと気がつくと何か心にぐっと詰まっていたような圧迫が消えて、とても軽やかになっている自分に気づきました。あれ? やっぱりたくさん泣いたらいいみたい。この時、予期せず心の健康を感じたのです。

以来、1〜2ヵ月ごとくらいに「智恵子抄」の「レモン哀歌」をこっそりと読んでは号泣するということを繰り返すようになっていました。こんな読み方は不純なのではないかという考えが頭を過ぎりもしましたが、彼らのせつなく美しい愛に触れることが、当時の私の心のバランシングをしてくれたようでした。

中学生の頃は、笑ったり、怒ったりということはよくありましたが、悲しむということはあまりなかったようです。私は時期をみては、能動的に泣くために「智恵子抄」を読んでいました。これは、悲しい映画やお笑い、ホラー映画などを求めることと同じことだったのでしょう。今にして思えば、人の感情にもバランスというものがあり、どこか偏ったところがあるのはもしかするとちょっと不健康なのかもしれません。

大人になった今は、しばらく泣いていないからといって不具合は感じませんが、やはり、感動的な映画や本、ドキュメンタリーなどに触れて流す涙は、心が洗われるようですっきりとします。心の健康のためには泣く、笑う、怒るということは大切なことなのでしょう。

涙には、いくつかの種類があります。大きく分けると「感情の涙」と、痛みや生理現象による「無感情の涙」に大別することができます。

 ある「感情的な涙の調査」結果によると、感情的な涙を流した後は、女性が85%、男性は73%の割合で、泣いた後は気分が良くなるという結果が出たそうです。

感情的涙はさらに2つのタイプに識別することができます。一つは、「嬉しい」、「悲しい」ときの涙。二つ目は、「悔しい」、「腹が立ったとき」などの「怒り」の涙です。前者の涙は、濃度の薄い涙で、副交感神経を優位にします。後者は、塩辛く、しょっぱい涙で、交感神経を優位にするのです。このことからもわかるように、より人を癒す涙とは、嬉しい、または、悲しい涙なのです。

これら感情的涙にはストレスを解消する働きがあると言われますが、それは、涙によってストレス物質であるコルチゾールを体外へ排出する働きがあるからだと言われています。

 もし、長期間に亘るストレスが慢性化し、コルチゾールの分泌が過剰になって適切な排出が行われなくなると、記憶力の低下、脳の代謝低下、脳細胞同士が連絡を取り合う神経機能の低下、ホルモンバランスの低下、脳細胞死滅などの恐れがあります。
 これらをバランシンするため、コルチゾールを排出する機能が「感情の涙限られる」ということには驚きさえ感じます。

この世には、名作映画や、演劇、文学、ドラマ、音楽などさまざまな感動作品があります。これら芸術作品の数々は、娯楽に止まらず、時に人生を教え、また、感情を揺り動かして心を洗い流すという尊い使命も持っているのだと気づかされます。

本来、人の感情生活というものは、自然に調整されながらそのバランスを保っているものだと思いますが、ストレス社会と言われる昨今は、意識的に感情の健康管理をすることも大切なことなのではないでしょうか。

志あるリー ダーのための「寺子屋」塾トップページへ