2012.1.30   

第5話 喜怒哀楽の分量。
「喜」は人生のミッションを通してやって来る

 

いよいよ喜怒哀楽の分量4つ目の「喜」についてです。

よく喜怒哀楽の「楽」と「喜」は同じ意味なのではないかと言われたりもしますが、確かにどちらも喜んだり、笑ったりという感情表現に繋がる点で共通するものがあります。では、この二つの違いは何かと言いますと、「楽」は主に趣味や娯楽などに対する楽しみ、または、らくをするという意味に対し、「喜」は目標達成、結婚や出産、昇進など自らが得た成果を嬉しく思うこと、また、与えられた慶事や好意に対して喜び、礼を述べることとなります。この礼を述べることとは、喜んだ結果としての行為のみならず、それそのものが喜びとなります。

「楽」との違いを簡単に言えば、「喜」は基本的にヒトの成長や命そのものに直結する感情となり、その喜びの延長線上には常に感謝の心が現れてくるという点です。

ところで、ヒトには必ずその人ならではの天命があるということはご存知でしょうか。天命とはその魂がこの世に生まれて来た本当の理由、目的と言い換えることもできます。果たされるべき天命は職業のみならず、生活の中でのなんらかの役割といったさまざまな場や人間関係の中で成立しています。

ヒトは自分の天命と出逢い、そのミッションを遂行するとき、必ずや喜びを体験します。そこから得る喜びは「楽」の快適で弾けるような楽しさ、嬉しさとは違い、感謝の念や、情熱を伴う深く温かな感情です。この喜びと天命について、私なりの経験を例にとってお話ししたいと思います。

以前会社員だった頃、身体を害したことがありました。当時、入院して病気症状は治癒したものの、その後ずいぶんと薬の副作用に悩まさることになったのです。これがきっかけとなって自然療法を基盤とする美容・健康を探求するようになったのですが、それから早や15年近くの月日が経ちます。

自分としては必要に迫られて探求した美容・健康だったので、これを仕事にしようとか、そんなことができるとは考えもしませんでした。ところがある日、尊敬する美容家の先生に「あなたは美容家になるといい」と、とても真剣に勧めていただいたのです。

しかしそう言われても、先生は買い被っていらっしゃる、そんなことが自分にできるわけはない、まだまだ知識不足だと思っていました。ところがその先生は会う度に「あなたは美容家になるといい」と言い続けてくださったのです。

また美容家になることを勧められたある日のことでした。帰途についた私は少し困惑しながら歩いていたのですが、ふと先生の真剣な眼差しを思い出すと予期せず大粒の涙がパラパラとこぼれてきたのです。え? どうして泣いているの? 都心の真ん中でいきなり泣き出す自分に慌てました。しかし涙を止めようとしても止まりません。これは参ったと涙を止めるべくどうして泣けてくるのかを考えてみるしかありませんでした。

そして気づいたのです。人生の中でこれほどに私を認め、真摯に励ましてくださった方がほかにあっただろうかと。なんて有難いことかと改めて感じ入りました。この瞬間美容家を始めてみようと決意したのです。

このエピソードには、ヒトにとっての根源的な欲求である“認められたい”という想いが満たされて「喜び」を得たことと、さらに無意識層で自分の天命に触れるという「喜び」が含まれています。さらに言うならば、尊敬している美容家の先生に真摯な態度で認めていただくことでより深く自己愛が満たされ、その幸福感から感謝の気持ちが溢れてきたのです。

そして、長い間自分の不調と格闘しながら体験し、得てきた知識を仕事として生かすことができるという新たなるビジョンは、理屈抜きにワクワクと心を躍らせてもくれました。このワクワク感こそが自分の天命に気づいたときのシグナルなのだと思うのです。

こうして美容家の仕事をスタートし、自分なりの健康をベースとした美容講座を開講することになりました。初めての講座では、知人の助けもあり、美容意識の高い参加者がたくさん集まってくださいました。皆さん一通りの美容や健康法、お洒落も経験してきたちょっと厳しそうな面々です。この参加者の方たちが、レクチャーの途中から前のめりになり、大きく何度も頷く姿を見て本当に嬉しかったことを覚えています。

初めての2時間半の講座ではそれまでにない喜びを体験しました。それは“与える喜び”です。自分が心から良いと信じるアイデアを言葉にして提供し、それを参加者の方が熱心にメモを取る姿や、瞳を輝かせて聞き入る様子は、まるでキラキラと輝く喜びの波のように感じられました。そして、美容・健康の話を言葉にするたびに自分自身の理解がその場でどんどん深まっていくのが手に取るようにわかるのです。まさに与える者が最も与えられるという体験をさせていただいたわけです。それは“得る喜び”とは比較にならない大きなものでした。そしてその喜びによって自分自身が生き生きとし、感謝の念が溢れてくるというそれは幸せな体験だったのです。

アーユルヴェーダの哲学には「ダルマ」という考えがあります。これは、ヒトそれぞれの命には必ず遂行するべきミッションがあるというものです。多分、日本人の言うところの天命と同じ意味合いとなるでしょう。

ダルマの定義は「それは自らの生命を育むと同時に他の生命も育む行い」です。例えば料理をすることがダルマで料理人としてそれを行う場合、料理によって自分自身の健康が支えられ、また、お客様となる他の命も養います。これが家庭の主婦という立場を取れば、家族のために食事を作り続けることでダルマが果たされます。料理は一般的に皆がすることですが、これがダルマともなればそのヒトのお料理はとびきり美味しく、何より食事を振舞うことに喜びを感じるはずなのです。

ダルマが何であるのかは、それまでの人生を振り返ればなるほど自分の経験はこのためにあったのかと納得できるような独自性により、本人には必ずわかるものだとされています。そして、命はミッションを果たすことができる環境を選んで生まれて来ると言います。

例えば音楽を奏でることがダルマで、音楽一家に生まれるというわかりやすいパターンも少なくはありません。また仮にそれほどわかりやすい環境にはなくても、それまでの人生を振り返り、心が惹かれることの傾向、仕事、人間関係、病気など、さまざまな経験を眺めてみれば、それらがまるで繋ぎ合わせることができるパズルのように一枚の絵を描き出して答えを出してくれます。もし、どうしてもダルマが見えないときは、わからないというそのままの状態を心の中で宙ぶらりんにしておきましょう。それを辛いと感じることもあるかもしれませんが、こうしておくと意外に早く答えが現れてくるものです。

もし、自分の天命やダルマが途上で見えないと感じたときには、それが必ずしも職業に限定されるわけではなく、活動の形態が途中で変化することもあると思い出してみてください。例えば、あるヒトは生涯音楽家として「美」に貢献して全うするでしょうし、あるヒトは「守る」という天命、ダルマを遂行するために、主婦から介護師に転身することもあるでしょう。なんであれその道程の中でヒトは深められていきますし、ミッション・キーワードがある方向性を持って変化してくる場合もあるのだと思います。

こうしてヒトは天命・ダルマを通して最終的に大きな「喜」を体験するのではないでしょうか。本当の意味で有終の美を飾るとはそういうことなのかもしれません。そして、誰もが大きな「喜」に向かうことを可能にするのが“ミッションを果たすこと”だと思うのです。

しかし、何事もそうであるように天命・ダルマは喜びだけの道ではありません。時に困難があり、八方塞がりに見えることもあるのです。実際のところやっとみつけたはずの天命・ダルマに気づくと「自分にはとてもできない、務まらない」という大きな恐れが出てくる場合が非常に多いものです。この「恐れ」については次回の第6話で触れたいと思います。

最後になりましたが、私の天命を言葉に置き換えるとすると「救済のために教えたい」です。病気になったり、人間関係に悩んだり、人生に迷っているヒトを一人でも多く助けたい! と根拠もなく心が言うのです。この声に初めて気づいてから20年近くも経ちますが、当初それが天命・ダルマの声だとは思いも寄りませんでした。

現在は、やっとこうして美容・健康・幸福の哲学を扱うジャーナリストとして執筆し、講座を開き、ミッションの遂行を始めています。この「寺子屋」塾のタイトルにあるように、どんな人生も笑いを取り戻すことができるのだと信じて自分なりのメッセージを送り続けていこうと思います。

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