2012.2.14   

第6話 天命・ダルマと「恐れ」の関係について

 

前回は「喜」と天命・ダルマについての話でしたが、ここで一つ見逃してはいけない「恐れ」について触れたいと思います。

ヒトが自分の人生の使命である天命・ダルマをみつけたとき、まるで魂がダンスを始めるかのようにワクワクと嬉しくなります。ところが、それも束の間、よくよく考えてみれば「とてもそんなことはできそうにない」「自分には無理」だと強く否定する考えがやって来ることがあります。まるで慌てて逃げ出したくなるような、たまらなく怖くなるという気持ちが出てくることは、実のところ非常に多いものです。また、もっと恐れが強いヒトなどは、最初から怖さと自己否定だけが大きく迫ってきて、喜びなどまったく感じられない場合もあるのです。これは決して珍しいことではありません。

自分のやるべきこと、進むべき道をみつけた! と感じたときにやって来る「恐れ」はまさに天命・ダルマに気づいたというシグナルの一つです。もちろんどんなことにも例外はありますから「恐れ」を抱くことなく進むヒトもいるのでしょうが。

ここで知りたいことは、ずっと探していたはずの自分のミッションをやっとみつけたというのに、それを阻む「恐れ」を抱いてしまうとは一体どういうことなのかということです。せっかく自分の生きる道に気づいたのですから、素直に喜んでサクサクと進めばいいだけなのにと思いませんか?

ここでまたもや私自身の経験を振り返りつつ話を進めてみたいと思います。私は美容・健康を扱う美容家の仕事を始めよう、ヒトさまに教えることをさせていただこうとある時決意しましたが、それまでに心の抵抗がかなりありました。前回の第5話で書いたように、ある美容家の先生から勧めていただいた当初、本当に有り得ないことだと思っていたのです。そんなふうにまったく自信を持てなかった私に「そんなことはない、できるはずだ」といい続けてくださる言葉さえ買い被りだと疑ったのです。

この激しい自己否定を崩すのに、その先生は半年近くもの間、会う度に言い続けてくださったわけですが、いつの頃からかそう言われるたびに絶対に無理だと思いつつ、それでいて嬉しいという矛盾を心に抱え始めたのです。

そして何度も促されているうちに、自信はないもののここまで言ってもらえるには何かそれなりの根拠があるのかもしれないなどとうぬぼれ始めました。無理に決まっているけれども、もし、美容家になれたら? と想像してみるようになったのです。

自分がもし美容家として活動するなら…これまでの経験や知識を使ってできることって…。こう考えてみると私が扱うことのできそうな美容は一般的に言うところの美容家のものとは少し違っていました。もし自分が提案するのなら心身の健康ありきで美容を謳い、自然療法などを続けた経験を生かしてある程度の独自性を持たせることができるかもしれない…こんなふうに知らず知らずの間にビジョンが明確化されていったのです。

しかし、そのビジョンを実際に行動に移すと想像するだけで恐ろしくなりました。できるはずはない、自分にはとても無理だと。ところが美容家の先生に説得されていた半年の間に心の中では大きな「恐れ」と同じくらいの大きさの「夢」も育まれていたのです。とてもできそうにないけれど美容家の仕事をしてみたい、そんなふうに考え始めていました。心に第二の矛盾が生じたわけです。

そんなある日、自分の中でちょうどいい言い訳をみつけました。それは、自分に美容家は務まらないが、美容家の先生のお手伝いとしての活動ならできるかもしれないという腰の引けたアイデアでした。当時先生に嬉々としてそう申し出たところ「お手伝いなどしてもらいたくて言っているのではないのです。あなたは自分のことだけ考えて美容家として独り立ちすればいいのです」と返されてしまいました。え? お手伝いはダメなの? 寂しいような拍子抜けしたような気分になりました。

「独り立ちで美容家ねぇ」独り言を言いながら家路につきつつ、その頃にはすっかり観念していました。なんだか神様に見破られてしまったような気がしていたのです。怖くて前に進めず、しかし進みたいがために自分を欺き考え出した中途半端で腰抜けな提案を。もはや誰に頼ることなくやってみるしかないと受け入れ、決意するしかありませんでした。

それからどう駒を進めるべきかを考えました。急に「美容家になりました!」と宣言したところで何も始まりません。かといって何か後ろ盾があるわけでもありません。自分にできること、得意なことは何かと考えを廻らせ過去に「教えるのが上手い」と何度か褒められたことを思い出しました。そうだ! カルチャーセンターで美容講座を開いてみよう。実績はないけれど誰だって初めの一歩はあるものだしと、ある新聞社主催のカルチャーセンターに応募し、それが本当に美容家としての初めの一歩となりました。

そして、予期せずその時が来たのです。「恐れ」との真っ向勝負。カルチャーセンターで講座を持つことになり自宅で準備を始めたときでした。突然言いようのない「恐れ」が込み上げてきて、私は一人大声を上げておいおいと泣き始めたのです! またもや驚きました。自分に。一体何が起こっているのだろうかと頭の上に巨大なクエスチョン・マークを浮かべながらも湧き上がってくる恐れに耐えられず泣いているのです。そして涙が枯れる頃には心が軽くなり、こんなにも新たなるスタートが怖かったのだと知ったのでした。

ヒトが天命・ダルマを始めようとする時、必ずと言っていいほどそこに「恐れ」の感情が湧き上がってきます。これは、理屈ではなく天命・ダルマが命の根幹に響くものだからなのだと思います。この現実的なことに対する障害、抵抗、無力感などを感じさせる「恐れ」は、同時に生きること‐‐言い換えれば自然界、神への畏敬の念である「畏れ」でもあるのではないでしょうか。

しかし、「恐れ」を抱くことは否定されることではありあません。これは心の危機管理能力でもあるのですから、赤いランプが点滅するように「恐れ」が出てくるからこそヒトは失敗しないように慎重さを持って進むことができるのです。ですから「恐れ」はあっていいと言いますか、むしろあったほうがいいのです。

通常「恐れ」はヒトを脅かす良くない感情として扱われ、できるだけ早く回避しようと急ぎます。ですからヒトは天命・ダルマに気づいた時に逃げようとするのです。ところが「恐れ」はあっていい、「恐れ」を抱えたまま進めばいいということさえ知っていればもう大丈夫です。「恐れ」があることが正常で、逃げたり戦ったりする必要はないということです。

今でも私は時々大きな「恐れ」を感じます。「恐れ」が入った大きくて重い袋を抱えながら一歩一歩、時に立ち止まりながらもなんとか前進を続けています。そして時々自分にこう言います。「恐くてOK」

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