2006/10/02
第3話 点をつなぎ線にする生き方
第1話、2話に渡って綴ってきた、ニートたちとの係わり合いを振り返って、最初は興味本位であろうと、偶然であろうと、それはどこかで自分が求めていた必然的な出会いであると私は考えている。
今の自分にとって、果たしてこの出会いが必要なのか、プラスになるのかと考える必要もないのではないだろうか。
20歳くらいの若い頃、私はとても刹那的な生き方をしていた。今、面白くないものは面白くない。今、必要でないものは必要ではなかった。
例えば、こんなに美味しい物はこの世にない、と思うほど好物な食べ物でもそれを食べ続けていれば、不味いとはいかないまでも、美味しいとは感じなくなる。
「特別」ではなくなるわけだ。
刹那的な私の若いときの生き方は、これと同じだったと思う。
好物が好物でなくなるから、また新たに好物を探す。それも飽きるので、また探す。そして、気がつく。「好物」をずっと「好物」として愛することができる生き方ってないのだろうかと―。それを考えて追求していくと「自分は何のために生まれてきたのか―?」「自分のやるべきことは何なのか―」ということになった。
そう考え始めたのが、22歳の時、アメリカの友人宅で2週間ボケッと過ごしていた時だ。
私たちは、「今」というスポット(点)を生きているが、それはやがて線となり、繋がっていくべきものである。果たして、自分の人生が終わるとき、その線が自分の生き様としてきれいに残っているのかどうかは、スポットの在り方に関わっている。
多くの人間が自身に問いかける「自分は何のために生まれてきたのか」は、スポットの最終到達点だ。しかし、その到達点がすぐに見える人はほとんどいないだろう。
ほとんどの人が同じ疑問で悩み、苦しみ、そして自問自答を繰り返す。
私も同じだった。私は、毎日朝から晩まで天井とにらめっこしながら必死に自分に問いかけた。
「自分は何のために生まれてきたのだろうか―?」
そして、ひとつ、ひとつ自分の今まで歩いてきた過去を振り返った。
きっと、今まで歩いた道程に、多くのメッセージがあるはずだ。
すべてが自分に必要な体験で、そう、今ここで、天井を見つめている自分でさえ、これから生きていく上で必要な自分だ。そして、刹那的な日々を送ってきたことさえ、大切な時間。なぜなら、刹那的な時間があったからこそ、今、天井を見て、考えている自分がいるのである。
生い立ち
私は、1958年10月2日、今は亡き父、成基学園の創設者である佐々木雅一と母、梅乃の長男として生まれた。
父が43歳にして誕生した息子とあって、父は私を溺愛し、私が生まれた日には近所に紅白饅頭を配って歩くほどの喜びようだったという。
しかし、物心がつき、小学校3,4年生になるころには、父の職業と私に対する過剰な愛情、期待が私にはとてつもなく重荷になり始めた。
父は「努力」一辺倒で来た人間だった。昭和37年に成基学園(当時あすなろ学園)を設立し、昭和62年、70歳で他界するまでその「努力」は頑固なまでに貫き通された。
その信念の矛先は仕事と共に息子の私にも向けられ、私は「努力」と言う言葉に自分でも驚くほどの嫌悪感と拒絶反応を示すようになっていた。
「努力」への拒絶は「父」への拒絶でもあったのだと思う。私は次第に父の期待を裏切るかのように勉強に全く身が入らなくなってしまった。
しかし、父に逆らうことは決してなかった。逆らっても「得」なことがないからだ。父の前では「いい子のフリ」をして父を喜ばせた。
そんな私に父はますます努力と志の精神を注入しようとした。私は、そんな父が息苦しくて仕方がなかった。父が「努力」という言葉を言えば言うほど自分が「怠け者」と言われているようでイヤで仕方がなかった。
周囲の声も同じく大きなプレッシャーだった。有名塾の息子=優等生と誰もが見る。
本当は、スポーツが得意で、子どもの頃の私は勉強よりも何よりも大好きなサッカーに没頭したかった。しかし、その子どもらしい楽しみも父は私から取り上げ、父は「努力しろ」「勉強しろ」と呪文のように言い続けた。そのせいか、それから大学に至るまで、試験中の一夜漬け以外、勉強した記憶はほとんどない。
「いい子のフリ」をしていた私は心の中で「オヤジのくそ食らえ!」を連発していた。
ストレスは次第に大きく膨らんでいった。限界だった―。
気がつくと、私は近くの文房具屋に入って、ノートや消しゴム、鉛筆などいろいろな物をポケットに忍び込ませていた。
繰り返されえるイライラが私の善悪を混乱させていたのだと思う。
小学校を卒業し、私は同じ京都にある同志社中学に入学した。
周りから見れば、進学塾の“ボンボン”に見えただろうが、中身は全く違う“あほボン”だ。万引きは相変わらず止むことがなく、その頃から家の金を盗み出して散財することも多くなった。
そして、それは起こった―。
朝から雨が続く、うっとうしい午後だった。
私は学校が終わると、あてもないまま繁華街のスーパーに向かい、気がつくと衣料品売り場に立っていた。
とりあえず1、2品の品物をかごに放り込むと店内を見てまわり、レジに向かった。
そしておつりを受け取って一歩店の外に出た瞬間、「ちょっと君?」と背後から肩を叩かれた。心臓が止まるほど“どきっ”としたのを私は覚えている。
「カバンに入っているもので、まだ清算していないものがあるでしょう?話が聞きたいから一緒にいらっしゃい」
私は嫌な顔をして、目の前にいる警備員らしい女性を見た。
「カバン、開けて!」
万事休す―。私は逆らわず、黙って学生カバンを開けた。中から、未清算のTシャツが一枚出てきた。
「どうして、こんなことしたの?」
警備員は呆れた様子で私に聞いた。
私が盗んだのはTシャツ一枚だけだった。特に理由はない。何となく盗りやすそうだったのだ。
私はその時よほどしらけた顔をして反省の色も見せなかったのだろう。
警備員は「君!万引きは犯罪やで!」と強く言い、私はすぐ近くの警察署に連れて行かれた。
父にこのことが知れたら、学校に知れたら・・・。私は急に怖くなってきた。
「名前は?学校は?なんでこんなことしたんや?」
「むしゃくしゃしてたから・・・」
「お父さんの仕事は?」
警察官は書類にペンを走らせながら無表情に聞いた。
「成基学園・・・」
「なんやて?聞こえへん。もっと大きな声で!」
「成基学園!私塾の代表です!」
「・・・なんやて?」
警察官は言葉を失い、私の顔をまじまじと見ていた。
「なんでや・・・。あんな有名進学塾の息子が・・・。アカンやないか・・・」
警察官は大きなため息をついて私の肩を叩いた。
その時、私は自分の父が営む成基学園の知名度の高さを少し誇らしげに感じた。しかし、その感情もドアから飛び込んできた父の姿を見た途端、吹き飛ばされた。
私は恐怖を感じたが、もうひとりの自分が心の中で父に「ざまあみろ!」と呟いた。
殴られるのか!怒鳴られるのか―。好きにしやがれ!といった気分だった。
その時、「本当に、申し訳ありませんでした・・・」という父の小さな声が背後から聞こえてきた。今まで、他人に一度も謝ったことがない父が、私のために頭を深々と下げ、謝っているのだ。
父が謝罪する姿を生まれて初めて見た私は、その時改めて事の重大さに気づいた。
父は教育者である。
「ざあまみろ!」という感情は消え、後悔が私の中に沸いてきた。
帰りのタクシーの中で父は何も私に話さなかった。責めるべきは息子ではなく、自分であると考えていたのだろう。
他人の子どもには偉そうに指導しておきながら、自分の子どもには何ひとつ行き届いていなかったことへの怒りと悲しみが父を黙らせていたのだと思う。
私は、この出来事をきっかけに、“いい子”を卒業して、素のままの自分で生きていこうと決心したのである。
転機の訪れ
それからの私は、父からのプレッシャーを跳ね返さんばかりに、楽しむことだけを追求し生きてきた。その頃の私は本当の「あぼボン」だったと思う。
こうして刹那的な日々を送っていた私はアメリカに渡り、22歳で「どう生きるか」という人生最大の大きな壁にぶつかることとなる。
前が見えず、悶々と時間だけが過ぎていく中で、なぜか私が万引きをした時の父の顔が、何度となく頭に過ぎった。父だけではない。スーパーの警備員の女性、警察官―。
どの顔にも大きな陰りがある。どの顔にも光が当たっていなかった。そして、その時の自分の顔にも大きな影があったに違いない。
今はどうなのだろうか―?
私は、立ち上がって鏡を見た。一見普通に見える。しかし、見方を変えれば普通にしか見えない。
万引きは悪いことだ。そして、それを犯した事実というのはどんな昔のことであれ、私の中で永遠に残る。
悪いことをして何かを残すか、善いことをして何かを残すか、答えは言わずと知れたことだ。同じ人生をこれから生きていくのなら、善いことをして何かを残したい。世の中に自分の価値を、存在感を残すような生き方がしたい。そう私は思い始めた。
楽しみだけを求めていても何も残すことはできない。本当の楽しみや好物は、物事の到達点にある。そして到達点から振り返れば、その人の生き様は多くのスポットで創られた一本の力強い美しい線となっているはずだ。
今、一瞬の楽しみを求めて生きる「スポット(刹那)」ではなく、少し先に「スポット(目標)」をつけてみてはどうだろうか。そしてそのスポットに到達したら、また少し先にスポットをつけてみる。ひとつのスポットへの到達速度が速くなればもっと「遠くのスポット(大きな目標)」をつけてみる。
私は、サボってばかりいた大学をきちんと卒業し、仕事について必死に働こくことを最初の「スポット(目標)」と定め、その通り最初の「スポット」を乗り越えたのである。
到達は「真の喜び」と私が初めて知った瞬間である。
※ 次回は社会人になってからの自身の体験をお話します