第11話 : 天命の課題
天命の段階
社員の「夢」を明確にさせる全社員対象のHDSセミナー(ヒューマン・ドリーム・サポート・セミナー)を開始し、私は、社員たちが書き込んだ「個々の天命」に評価をつけたことは前回お話したとおりである。
このことに関して、社員から「個々の天命について代表が評価をするのはおかしい」との声が上った。確かに個々の天命を評価するのはおかしい。
これは、私の言葉が少し足りなかったようだ。
私はセミナーで、この評価は「SCG(成基コミュニティーグループ)のグランドミッションに同調しているかどうか」を基準にしたものであると付け加えることにした。
そのグランドミッションとは、「私たちの大いなるミッション(使命)は地球・国家・地域レベルの様々な課題に対し『人づくり』を通して、問題解決を図ることである。そして自立した人間として、仕事を通して人に喜びや感動を与えられる能力を高め、感性豊かな本物の人間になるため、自ら鍛え上げることである」とあり、それを背負った教育人としての天命が、個々に存在すべきであると私自身が考えているからだ。
組織の目標に、同調できないものは、組織から抜けていくだろうし、同調できるものは、その組織のミッションが立ち上げたオペレーションシステムの上で、個々のミッションを見つけ、アプリケーションソフトとして役割を担っていくのが自然だ。あくまでも、私の天命の評価とは、そういった意味合いを持っている。
また、若手社員の中には「天命」という意味合いが理解できず、思いに至らないケースも多くあったため、私は「天命への到達」を五段階にわけて、説明することにした。
まず、「あなたの好きな言葉は何か」を自問自答することだ。
好きな言葉が明確になれば、それをさらに噛み砕いていくうち「自分の中の大切な価値観」が見えてくるはずだ。すると今度は、その価値観を守り抜くために様々な「信念や志」が芽生えてくる。それがやがて「使命」となり、苦しみや嘆きから生まれる確固たる覚悟となって、最後は「天命」へと繋がるのである。
“好きな言葉”→“大切な価値観”→“信念・志”→“使命”→“天命”
これが天命への発達段階で、大切なのは自分自身への問いかけだ。人は問い続けていかないと成長しないのである。
私の天命は「世界の人々から尊敬、信頼、愛される日本人(ひと)創りをする為に全てを捧げること」とした。
それは組織である、SCGのグランドミッションと大きく結びついているものであり、その背景を熟知した上で、若い社員たちには、天命への到達を果たして欲しいと願っている。
シフトする時代を前に
自分の天命とは何か?
私自身が自問し、探求していく中で、最も忘れがたい体験がある。
そのひとつがタイへの托鉢出家修行である。
時期は、二十世紀から二十一世紀へと移り変わろうとしているまさにその時であった。
私が、この時期を選んだのにはわけがある。
弱肉強食、資本主義時代と言われた二十世紀は終わり、時代は確実に変化していく。
縦型社会からフラットなネットワーク社会へ、そして、心の時代へと二十一世紀は変化を遂げていくだろうと考えていたからだった。
時代の変化によって、人も変わっていかなくてはならない。
私は、組織のトップにいる立場である。その責任ある立場として、まず変わるべきは自分自身であると考えたのだ。
さて、我々が取り入れている教育コーチングで、人間は四つのタイプに分かれるということを前回の十話でお話した。
私の父、佐々木雅一は「人も場も支配し、自己主張が強い」典型的な「コントロール型」だった。詰め込み教育と言われたように、二十世紀はコントロールすることによって、日本社会も、教育も伸びてきたと言える。しかし、時代は変わる。二十一世紀はコントロールでは創れないものが必要とされる時代となるだろう。
タイへ修行にでかけようと思ったのは、突然の思いつきではない。
知人がタイでの修行旅行のことを熱心に私に語ってくれたときから、いつか行ってみたいと思っていた。また、その頃からどういうわけか、「人生とは何か」を探求している人々との縁が深まっていて、「使命」や「天命」について、徹底的に自問してみたいという欲求に駆られていたのだった。自分自身が最も試される時期が来たと私は思った。私自身も変わらなくてはならない、自分の天命探求のためには今、旅立たなくてはならないという気持ちに襲われていた。
しかし、修行など決して楽しいものではないはずだ。
私は、会う人ごとに「タイに行くのだ」と言い、自ら行かざるを得ない境遇に自分を追い込んで、二十世紀最後のクリスマス、タイへと旅立ったのであった。
寺での修行生活は非日常的で、厳しいものだった。
毎朝午前二時に起きると、ローソクの明かりだけで身支度を整え、瞑想に入る。何も考えず、ただじっとしているだけなのだが“考えない”ことが思った以上にできない。そして、瞑想が終わると、二時間くらい歩いて托鉢の修行にでかける。足が痛くてだるくてたまらなかったが、「功を挙げ、徳を立てる」の想いを込めて品々を渡す人々の気持ちを考えると、弱音は吐いていられなかった。
托鉢が終わると、再び瞑想。そしてようやく朝食の時間となる。
しかし、食事はこの朝食の一日一回限りだった。
私にとって最も堪えたのが、この空腹だった。
ところが、修行が四日目に入った頃からあれほど苦しかった空腹感が嘘のように消え去っていた。そして、私の頭の中に「郷に入っては郷に従え」という言葉が浮かび上がってきた。それまでの価値観を一旦手放し、今の状況に自分を合わせるということだ。
それを乗り越えた時、人は達成感を味わうことができ、それを大きな自信へと繋げることができるのだろう。この修行を終えた時、私は何物にも変えがたい喜びを手に入れたのである。
欲を菩提に変える
タイでの修行は私に実に様々なことを教えてくれた。
二十世紀最後を修行の場で迎えたことも、私の中では大きな意味があったと思う。
そして中でも最も印象に残ったことは「煩悩」という言葉であった。
一般的な言い方をすれば、「煩悩」とは「欲」のことを言う。修行中、二十一世紀は自分の煩悩を手放さなくてはならない時代であると私は感じるようになっていた。
私の中で、「煩悩」との葛藤は、長く続いた。
人間として生きている限り「欲」を失くすというのは不可能に近かった。
意識しなくても「欲望」というものは、至るところに存在する。
「欲」とは一体何のか、人間である以上「欲」を手放せないものならば、「欲」を役立てる道はないものかと、私なりに自問自答することにした。
そして、私は、「欲」を二つにカテゴライズして、この葛藤とおさらばしようと考えた。同じ「欲」でも、その「欲」をどう使うかによって、「欲」の種類が変わるというものである。
私がタイで手放したいと思ったのは「煩悩」。これも「欲」の一種だが、その「欲」を私利私欲ではなく世の中のために役立てたとしたら、それは「煩悩」にはならない、という考えである。
「欲」を世の中のために役立てるとしたら、それは「煩悩」ではなく「菩提」と言えるのではないだろうか。
「将来こうなりたい」「こんなことがしたい」という「欲(言い方を変えれば目標)が、自分だけのものなのか、社会全体のものなのかで、「煩悩」と「菩提」の違いがある。
私は、SCGの社員たちには「菩提」の精神で、天命の探求に挑んで欲しいのである。
「欲」を菩提にするために、志を打ち立てることは必要不可欠だ。
なぜなら、人間は「煩悩」に流れるほうが楽なのだから・・・。
二十世紀から二十一世紀にかけてのタイでの修行は、今もって、私に様々な気づきをもたらしてくれる。
大切なのは自分に問い続けることなのである。
※次回も、HDSセミナーで話した私の体験談の続きです