2007/03/19
第12話 :天命への到達
社員の「夢」を明確にさせる全社員対象のHDSセミナー(ヒューマン・ドリーム・サポート・セミナー)の中で、私は、天命への探求の道標のひとつとしてタイでの托鉢出家修行のことを語った。今回は、もうひとつの貴重な体験についてお話をしたい。
時代が20世紀から21世紀に変わろうとしているその時、タイでの経験と同じくらい、私自身の天命を明確に導いた出来事がある。
鹿児島県知覧特攻隊員の遺書との出逢いがそれである。
沖縄戦では、この知覧基地から主に出陣、1000人以上の隊員が戦死したという。
最期の時、彼らはどんな気持ちで、何を思いながら、この世に別れを告げ、開聞岳の空に消えて行ったのだろう。
命に代えてまで、彼らが守りたかったものとは一体何だったのか。
私は、若くして命を落とさなければならなかった、特攻隊員の気持ちが知りたくて、その土地を訪れたのだった。
「子どもが大きくなっている頃には、きっと平和な世の中にもどっている。だから、後は頼む!その平和を守ってくれ!」ある遺書には、嘆きではなく、家族への愛と未来への希望が託されていた。
愛は受け入れること、認めること、許すこと。
愛は命に代えてまでも守りたいと思う心。遺書は私にそう物語っていた。
そして、その遺書に書かれていた“平和を守る”とは、世の中の平和というマクロな意味ではなく、もっともっと小さな、些細な自分の幸せ、そして自分の愛する家族やその周りの人々ということを意味しているような気がしてならなかった。
しかし、その言葉をひとつずつ掘り下げていけば“小さな平和が集まれば、それはやがて大きな平和へと繋がる”というメッセージにならないだろうか。
特攻隊員が最も守りたかった、家族のささやかな幸せ、そのささやかな幸せを守るために、彼らは漠然とした国の正義のために命を空に散らした。不思議なものだ。国の平和と社会の基礎単位である家族の平和。その土地で生きている以上、ここには切っても切れない縁がある。その土地の人々が環境を創り、時に環境が人を変える。どちらが先で、どちらが後なのかわからないが、自分の立場から、真っ先に“大切なのは人である”と思い立った。
そう考えると、遺書の一言には様々な深い意味合いが底知れず含まれているのではないかと思えてくる。
まず、ひとりの子どもが誰かに愛される人間に成長すれば、そして、そんな子どもたちが大勢いたら、世の中は間違いなく平和になる。特攻隊員の遺書に書かれていた、平和な世の中とはきっとそういうことを言いたかったのだろう。
私は、自分自身のことを考えた。
“自分にとって、自分の命を投げ出してまで、達成したいと思うもの、やり甲斐のあるものって何なのだろう・・・。”
それは、自分自身が問い続けていかなくては出てこない答えだった。
こうして、私は自問を続けながらタイへ旅立ち、自分の煩悩との葛藤(*第11話参照)を繰り広げることとなったのである。
大きな「欲」の中で生きていくのは厳しいものだ。地位、名誉、権力、金・・・。
それを手放すことは容易ではない。
まずは人間の煩悩を断ち切るのではなく、煩悩を自覚し、煩悩との付き合い方を知る―。
こうして生まれたのが、「欲」を世の中のために役立てるという「菩提」への定義である。
そして、その菩提の定義が私自身の腑に落ちた頃、私は、ようやく自分の天命に到達することとなる。
“世界の人々から尊敬、信頼、愛される日本人(ひと)創りにすべてを捧げること”
自分の「業」や「欲」を菩提に変えるのには、やはり「人儲け」しかないとの思いが、自分の天命を明確にさせたのだと思う。
さらに遺書に書かれていた「平和を守る」という言葉は後の私に大きなヒントを与えた。
人儲けは、小さな平和を数多く生み出し、いつの日か世界平和を築き上げる向日性に満ちた真の社会貢献だ。
そう考えると、様々なことに合点がいくようになってきた。
自分がなぜ、教育者である父の子として生まれてきたのか、なぜ、父との戦いを続けなければならなかったのか、なぜ、21世紀へと変わるその時に、知覧、そしてタイへ行こうと考えたのか。すべては自分の天命への到達のためだったのだ。
ならばなぜ、これほどまで多くのことを考え、感じ、経験しなければ人は、自分の天命へと到達できないのだろうか。
生まれた時から、天命が明確になっていれば、人間がこんなに苦しむことはなかったはずだ。
後にある人がこう言った。
“地球は魂を磨くところ。肉体は様々な“気づき”をもたらすための実像である。“
実像を持たないと、すべては概念になってしまう。行為・行動・身体がないと、気づきは起こらないということを意味しているのだ。
果たして魂を磨くとはどういうことなのか。魂は目に見えるものではない。
「磨きました」と他人に証明できるものは何もない。
それをあえて“磨く”と表現すれば、やはり魂の磨きは“仕事”の中にあると私は思う。
仕事とは厳しさの連続だ。仕事を楽しむという表現は、私からすれば、辛さと出逢い、苦悩し、自分を磨き、それを乗り越えた時に使う、突き抜けた世界であると思う。
二十代の後半、私には寝る間も惜しんでモーレツに働いた時期があった。
思えば、その頃の自分が私自身を最も成長させた時間でもあった。
あの頃、私は父と仲たがいしていて、教育界とは全く別の分野で日夜問わず働き続けた。
そこで、私が学んだことは“とことんやり抜く”精神だった。
その体験は、あの頃とは異なる今の世界でも大いに役立つ貴重な体験となっている。
“とことんやり抜く”は、どんな世界でも共通する“魂を磨く”最初の第一歩なのである。
以前、第6話と第7話に「夢現塾」のお話を書かせていただいたことがある。
その夢現塾の講師、プロ・バスケットボーラーの森下雄一郎もまた、“とことんやる!”が口癖の男だった。
実際彼は、“とことんやっている男”であった。
その森下から“とことん!”が持つ重要な意味合いを社員たちに、理屈ではなく五感で
感じ取って欲しいと願っていた。“とことん!”がなくては、魂に火はつかない。魂に火がつかなければ魂を磨くこともできないのである。
我々は教育人として、同じフィールドに立っている。
私たちの後ろには、子どもがいる。日本の未来がある。
“とことん”を知らない大人が、子どもたちに“がんばれ!”と言えるのだろうか。
子どもの洞察力は鋭い。がんばっていない大人から“ばんばれ!”と言われても、子どもはがんばれないのである。
だからこそ、私は、社員全員に“とことんやる!”を実践してもらいたいのだ。
そうしなければ、人は成長しない。
限界を超すほど仕事をこなして、初めて自分の中でやるべきことが見えてくる。
これこそが、天命への到達へと繋がるのではないだろうか。
そして、それができないのであれば、子どもの前には立たないでもらいたい。
子ども達はダイヤモンドの原石だ。その原石をぴかぴかに磨く手伝いをするのが、自分たちの使命だ。魂が磨かれていない社員に、ダイヤモンドの原石は磨けないというのが私の言わんとするところである。
成長したいと願っている若手社員は大勢いる。しかし、何をきっかけにどう成長していけばいいのかが、まだ見えてはいない。
これは、私からの社員への大きなヒントである。
“とことんやって魂を磨け!”
仕事という修行の場で、そう声を大にしてトップが言えない会社は、夢を実現できない。教育界に足を踏み入れた彼らが、このフィールドで、「天命」を見出してくれることを、願って止まないのが私の真意である。
※ 次回は私自身の体験から子どもたちの保護者に思うこと〜についてお話します。