2007/04/18
第13話: 親と子ども
子どもを支援する親への支援
ここまで私は教育者として、私自身がその使命にたどり着くまで、そして、社員が教育人としてのフィールドでそれぞれの使命を見つけてくれることを願い行なったHDSセミナーについて触れてきた。
そのすべての先にあるのは世界平和と子どもたちの明るい未来だ。
大切なのは子どもたちが自ら目標を持ち、考え、決断し、行動を起こす基本的自立への覚醒と言える。
その第一歩の場を成基学園小学部とし、子どもたちを基本的な自立へと導くわけだが、それらを達成するために欠かせない、もうひとつの大きな存在が親である。
そのため成基学園では入園する前に、子どもにもその保護者にも誓いを立ててもらい、宣誓書にサインをしてもらうという手段を取っている。
子ども自身がサインするのは、目標を達成するための宣誓で、保護者がサインするのは、子どもの自立を支援する宣誓である。
つまり、我々は、プロフェッショナルコーチとして、親は、ホームコーチとして、子どもの自立を双方からサポートしていこうというわけだ。
学力の向上と良い生活習慣は必ず正比例する。「お金を払っているのだから、塾まかせ」は効果的とは言えない。そのためには、塾と親が手を結び、子どもを支援していくという姿勢が必要不可欠となる。
しかし、残念なことに、日本人の親は子どもの自立を促す術をあまり心得てはいないのが現状だ。
それを思わせる、こんな話を紹介したい。
ドイツ駐在のある日本人新聞記者が、友人に招かれ、友人宅を訪れたときのことである。
そのドイツ人の友人には一歳前後のまだ立つか立たないか子どもがいて、部屋の中を興味深々に、這いまわったり、立ち上がろうとテーブルや椅子に手をかけたりせわしなく動き回っていた。
見ているだけで危なっかしい光景だったが、ドイツ人の友人はハラハラする様子もなく、その赤ん坊を微笑ましげに見ている。ところが次の瞬間、その子は立ち上がったかと思うとドスンとしりもちをついて、床に倒れて泣き出してしまった。
記者はびっくりして、その子を抱きかかえ、立ち上がって歩くのを手伝おうとしたが、友人は記者に向って「君は、この歴史的な瞬間になぜ、邪魔をするんだ!」と叱責したという。日本人らしい失敗(?)談である。
動物も、人間も同じだが、立ち上がり歩こうとする気持ちは、生きる力への第一歩だ。
生きる力を踏み出すことは、自立へと繋がる。生きる力を我が子が得ることは、親としてこの上なく喜ばしい出来事のはずなのに、日本人の親は、「あぶない!」といい、自立の素晴らしい瞬間を結果的に奪い取っているのというわけだ。
日本の親は子どもに対して、過干渉の傾向にある。
そのため、我々教育者は、子どもの目標達成のため“子どもを支援する親の支援”も常に念頭に入れておかなくてはならないというのが今の日本の現状だろう。
かけ違えてはならない三つのボタン
教育熱心なあまり、親がかけ違えてしまうボタン(要素)が三つあるのをご存知だろうか?
そのボタンとは「期待(目的)」「使命(役割)」「方法(習慣)」である。
まず、塾へ来る子どもの親の「期待」とは何だろう。その多くは、志望校への合格や、成績アップだ。ではなぜ、成績アップや受験合格を願うのか、その期待をさらに噛み砕いていくと「我が子の幸せ」への期待と繋がる。しかし、幸せ=受験合格ではない。親が考える我が子の「幸せ」の中には、「安定した生活や収入」「生きがいのある人生」「世の中の役に立つ人間」など、受験合格とは比較にならない様々な期待が含まれている。まずは、自分では気づいていない、根底にある「期待」を親自身が明確にすることが必要だ。
なぜなら、時に、親の期待は子のゴールとなる。受験合格だけが親の期待である子どもは、受験に合格したとたん、目的を失うこともしばしばだ。親が「期待」というボタンを掛け違うと、子どもはゴールを見失ってしまうのである。
ふたつ目は、三者それぞれの「使命」を明確にすることである。三者とは子どもとホームコーチである親、そしてプロフェッショナルコーチである我々のことである。
我々は、子どもの学力、そして人間力を高めるために支援をし、親はしつけを軸とした支援をするというものだ。この時、是非家庭内でも実行してほしいのが、成基コミュニティグループが取り入れ、広く勧めている教育コーチング(気づきを導き出す方法)だ。
「学校や塾にまかせきり」や、我々が取り入れている教育コーチングと正反対の指示命令によるしつけでは子どもに対するフィードバックに一貫性がないため、子どもは混乱してしまう。このように指導者(塾と親)が互いの「使命(役割)」に対して合意し、信頼関係を結ぶことによって、子どもは子どものあり方(しつけ)を身につけ、自分を発見し、目標に向かって進もうという子ども自身の使命にたどり着けるのである。
「教育は学校と塾にまかせておけばいい」という「使命」のボタンをかけ違うと、子どもも「使命(役割)」を見出せないのである。
最後は「方法(習慣)」を身につける、である。
物事の過程には常に起承転結が存在する。この起承転結を子どもが目標を達成するまでの段階でどう配置し、導き、習慣化させるのか。
そのためには、子どもは独立した個人と考え、子どもが求めているものと自分が求めているものとは違うことを知ってもらいたい。そして、子どもが求めているものは何か知ろうという心構えが必要だ。子どものルールを無視して自分のルールを押し付けるだけではうまくいかない。子どものルールを理解しようという姿勢が、子どもの自立支援へと繋がるのである。「方法」のボタンをかけ違うと、次に進むべき段階が見えず、達成までの道しるべを自分で組み立てられない子どもになってしまうのだ。
以上を踏まえれば、まずは自分がどうあるべきなのか(BEING)、そのために何をやるべきなのか(DOING)、そしてその結果、何が得られるのか(HAVING)を組み立てる“あり方”がセットできるようになる。
子どもたちが自分の人生の“あり方”を主体的にセットできることは、最も重要な教育のテーマだ。
これこそが自立への道であり、このテーマに触れず行なわれる学習指導など子どもに対して何のプラスにもならないだろう。
私が目指しているのは、根が深く張った教育だ。
緑の葉ばかりを伸ばすような指導法は真の教育とは言えない。
今の親は、子どもが日本語をやっと話せるか、話せないかの時に、英才教育だ、英会話だと、知識だけを詰め込むことに躍起になっている。
私の知人も例外ではない。国際社会の時代、英語は話くらいは話せないとダメと考え、二歳の子どもに英語をせっせと勉強させていると言うのだ。
それを聞いて、私は子どもがかわいそうになった。
二歳と言えば、純真無垢で感性がピカピカの時だ。我々大人には見えない、それこそ、「となりのトトロ」と話ができるような、視覚も嗅覚もすべてが研ぎ澄まされていていろんなものを吸収できる年齢だ。
その一番大切な時期に英語を習わせることに何のプラスがあるのだろう。
もちろん英語は話せたほうがいい。しかし、日本語もろくに話せない二歳の子が英語で何を考え、何を話せるというのだろうか?
この子はBEING(人間のありかた)を飛ばして、二歳にしていきなりDOING(学習)を親から押し付けられてしまったのである。
もし、語学に優れた人間が、素晴らしい会話をするというのであれば、日本人はすべて、日本語でなら素晴らしい会話ができるということになる。しかし、現実にそんなことはありえない。
言葉はあくまでもコミュニケーションの手段のひとつだ。日本語だろうが、英語だろうが、人間の思考がつまらなければ、どんなに語学が流暢でもつまらないことしか話せないのである。
そう考えれば、何を最も優先させるべきかはおのずと見えてくる、
成りたい自分とは何か、そのあり方(BEING)を子どもが見つけられるよう導くのが、身近な指導者(親)のあり方だろう。
何も二歳で英語を勉強させなくても、もし、子ども自身が翻訳家になりたいと自ら考えるのであれば、誰に言われることなく英語を勉強する(DOING)。そして、夢を自分の力で実現(HAVING)させるだろう。
BEING、DOING、HAVING の段階は、子どもを指導するためだけではなく、親も、目標(子どもへの期待)を達成する為には、きっちり踏まえるべき段階なのである。
親には親の、BEING(親としてのあり方)、DOING(親としての行い)、HAVING(親としての創り出したい成果)がある。
そして、私には教育者としてのBEING、DOING、HAVINGがある。その中で、子どもと、子どもを支援する親のために何ができるか、常に真摯に向き合っていきたいと私は思う。
※ 次回も自立とは何か、についてのお話です。