2007/05/14
第14話 : 机の上で学ぶ、机から離れて学ぶ
「努力」という言葉
前回は親と子どもの関わり方についてお話させていただいた。
我々はプロフェッショナルコーチとして、親は、ホームコーチとして、子どもの自立を双方からサポートしていくことが重要だ。
そして、ホームコーチである親が、「自分は何のために生まれ、何のために生きているのか」という人生の目的を、子どもとシェアしていくことで、ホームコーチの力を大いに発揮できることだろう。
人は夢を持つことで、目標が生まれ、夢の達成のために、今やるべきことを誰に強要されることなく自ら進んでやるようになるからだ。その姿は、他人から見ると、時に大変な努力と映るかもしれない。しかし、本人の中に「努力」という概念がどれほど存在してるのかと私は考える。
自ら進んで行動を起こす人間は、やりたいからやっているのだ。
「やる気」満々の人間が「自分はすごく努力している」と考えるものだろうか?
自ら好きでやっていることに、「努力」という言葉はどうもしっくりしない、というのが私の本音だ。
日本人は「努力」という言葉が好きで、親も教師も「努力しろ」と、呪文のように子どもたちに強要したがる。
私にはそれが不思議でたまらない。努力したら何でも手に入るのだろうか?目的も夢もないのに努力する人間がいるのだろうか。
逆に、人生の目標を持っている子どもは、「努力」という概念がないまま、キラキラとやりたいことに打ち込むのではないか。
私の父、佐々木雅一はまさに「努力」大好き人間で生涯「ウサギとカメ」の信念に生きた男だった。その話をいい例に「カメのようにこつこつ努力しろ」と、私は父に言われ続けて育った。
そして、小学校の修学旅行先の土産屋で「努力」と掘られた楯を目にした私は、とたんに恐怖のあまり逃げ出してしまったことがあった。こんなところまで来て父は自分を監視しているのかと恐ろしくなったのだ。そのせいか、私は、今でも「努力」という言葉がどうも苦手だ。
しかし、努力そのものを否定しているわけではない。やりたくないことを一生懸命努力しても、結果は生まれない。努力は人から強要されるものではなく、自分の中で無意識に沸き起こってくる「やる気」だと私は思っているのである。
その「やる気」の源こそが、「自分は何のために生まれ、生きているのか」という人生の目的であり、それをプロフェッショナルコーチである我々と、ホームコーチである親がサポートしていく体制が問われているのだ。
私はよく成基学園の子どもたちに「なぜ勉強するのか?」と聞く。
すると、ほとんどの子ども達は「いい学校に入るため、将来のため」と言う。
そして「いい学校に入って何をするのか?」「将来のためとはどんな将来なのか?」と聞くととたんに答えに窮してしまう。
なりたい自分と将来の夢が、自分の中に描かれていないのだ。これでは「やる気」は起きてこない。前回もお話した「BEING」(あり方)、「DOING」(行動)、「HAVING」(夢の達成)の法則は、「努
力」(やる気)にも大きく関係してくる。
しなやかに生きている子ども、そして人間に「努力」と言う言葉は似合わないのである。
生きる力と感性の法則
昨今、「子どもの生きる力を育もう」という、広告のキャッチコピーのような文句が教育現場に飛びかっている。
しかし、浸透しているのはキャッチコピーだけで、肝心の学校教育はあまり進歩していない。「総合的な学習」が数年前から取り入れられ、教科教育外の授業が定期的に行なわれているようだが、学校の教師自身も「どんな授業を取り入れていいのわからない」というのが現状のようだ。
生きる力を育むとは、夢を描くことができ、感性ある子どもを育てることだ。英才教育だ、幼児教育だと言われ、左脳だけを徹底的に叩き上げられた子どもの生きる力を伸ばすことは難しい。幼ければ、幼いほど、右脳を刺激し、五感を磨くことが大切なのである。
「きれいだね」「いい香りがするね」「うれしいね」「悲しいね」「熱いね」「冷たいね」「美味しいね」「きもちいいね」「悔しいね」「辛いね」「感動するね」、それから時には筆舌に尽くしがたい魂の底から沸いてくるような様々な感情をぴかぴかに磨くことだ。
物事を順序だてて考え、自分の気持ちや意見が整理できるしなやかな子どもを育てるためには感性の研磨はいつの時代でも不可欠である。
もし、親が目の色を変えて「教育、教育」と躍起になっているのなら、子どもの頭のてっぺんからつま先までを五感のすべてで体験させなければ、本やパソコンからは学ぶことができないのである。
例えば、「火傷」をしたことがない人間がその痛みをわかるだろうか。
広辞苑を引いて見ると、「火・熱湯などに皮膚が触れて傷つくこと。また、そのきず」と確かに書か
かれている。この場合テストで、「火傷」とは何か簡潔に述べよ―。と言われれば、辞書を引いただけの人間でも、知識さえあればすぐさま正解となるだろう。
しかし、経験したことがない人間がその“痛み”に寄り添うことができるだろうか?
答えは「ノー」である。
言っておくが、私は「火傷をしろ」と、子どもたちに勧めているのではない。体験を通じてしか、解
らないことは多い。だからこそ子どもたちがより多くの体験が出来る場を設けることが大切であると
言いたいのだ。子どもの感性を伸ばすことこそが、生きる力を育むのである。
こうした考えから生まれたのが(株)キッズ・ランドだ。
キッズ・ランドはこれまで成基学園内で実施されていた体験学習事業「成基グローバルキッズクラ
ブ」を独立させた会社で、 その野外学習施設が、石川県能登半島の中心「能登島」にある。
キッズ・ランドは1992年に子どもたちのキャンプをきっかけに始まった野外教育であるが、全社
員に広く知ってもらいたいと、2001年の社員総会を石川県で開き、未使用の畑や施設周りの草刈
、木の枝打ちを社員一人ひとりの手で行なうという作業を行なった。
自然の中で汗を流し、作業をする素晴らしさ、能登島の美しさを、社員たちが自ら体験することで
「子どもたちにも、同じ感動を・・・」という思いが沸きあがってくれたらとの私の願いでもあった。
結果、この一大作業は、想像以上に社員たちの賛同を得ることができた。
感動を知らない人間に、感動を伝えることはできない。
その言葉どおり、伝える者自身の感動を抜きに、子どもの感性、そして生きる力は育めないの
である。
そして、更なるプロジェクトの充実にあたり、年間を通した利用と地域にも密着した施設づくりとい
う観点から、現場に根付く担当者が必要となってきた。
そこで今では、成基学園の野外学習に従事し、活動を広めていったスタッフ自らが現地施設の
管理人となって、現地に根付き、地域に密着した施設づくりに積極的に取り組んでいる。
こうしたことによるメリットは大きい。
まず、現地に住んでいる人と常日頃から連絡を取ることにより、地域の情報が入りやすくなり、自
然の変化やその他必要なことが地元の人間レベルでわかる。
つまり私は「のと島キッズ・ランド」を、人づくりの具体化された施設として、成基コミュニティグルー
プの「聖地」と位置づけたのである。
ところが、3月25日、とんでもないニュースが私の耳に飛び込んできた。能登半島で起きた地震が、各地に大きな被害をもたらし、石川、富山、新潟の三県で、一人の死者を含む300名以上の死傷者、そして、石川県内で584軒の家屋が全壊、1,152軒が半壊。その後も余震が何度も続き、地元の人々は安心して夜も眠ることができないというのだ。
我々の「聖地」、石川県能登半島が危機に陥っている。
何か自分たちにできることを考えなくてはならなかった。
しかし、机の上で考えていても何も始まりはしない。
仕事を一段落させると、私はすぐに能登へと向う準備に取り掛かった。
※ 次回は、被災地能登半島視察についてお話します。