第15話 : 自分たちに何ができるか(能登半島地震)
能登半島地震
1987年、子どもたちのキャンプをきっかけに始まった野外教育、のと島キッズ・ランド。
それから20年もの間、キッズ・ランドは、成基コミュニティグループの人づくりの最も具体化した施設として、我々にとって教育の聖地とも言える役割を担ってきた。
しかし、3月25日、大地震がその聖地を襲ったとのニュースが飛び込んできた。
私は、ニュースを聞くや否や、キッズ・ランドの施設メンテナンスを委託していたNPOの担当者に電話をかけた。
「食器がひとつ、ふたつ割れた程度ですよ・・・。ここは大事には至りませんでした」
その言葉に私はほっと胸をなでおろし、受話器を下ろしたが、何かが腑に落ちず胸がつっかえたような気分に襲われた。
現地にいる人間が大丈夫と言っているのだから、大丈夫なのだ。しかし、本当に大丈夫なのか。
施設で壊れたものがなかったから、建物がそれほど被害を受けなかったから、けが人がいなかったから大丈夫なのか、本当にそれですむのか。
何かが胸につかえたまま、その理由がわからなかった私は、日々の仕事に追い立てられ、その後の数日間を普段どおり過ごした。
こうして、地震から十日ほどが過ぎた頃、私はある夕食会に出席していた。
そこには以前、能登島のゴルフ場で一緒にプレイしたことがある仲間が四、五人、出席していた。
「能登の施設は大丈夫だったのかな?」
その中のひとりが私の顔を見るなり聞いた。
現地にいる者に連絡をとったところ、食器が割れた程度だった、と私はすぐさま答えた。
「そうですか、よかった・・・」
安堵のため息がいっせいに漏れた。
その時、私は再び大きな違和感に襲われた。
仲間の気遣いに、喜びと感謝を感じながら、一方で、自分の今やるべきことがなおざりになっていると感じたからだった。
私は夕食会を終えると、すぐさま能登半島沖地震関連ニュースをネットや新聞で再度読み直した。
確かに、被災者の数や状況からいえば一般的に「大丈夫だった」の範囲に入るのかもしれない。
知り合いに被害を受けたものがいなかったのも一番の原因だろう。
しかし、それ以外に「大丈夫」と一言では片付けられないものが、地元の人々にのしかかって来ていることは、一目でわかった。
地震による二次災害である。
輪島市名物の朝市が地震の影響で出店数が激減、観光客もほとんどいないくらいにまで落ち込んでいた。輪島漆器など伝統工芸を手がける店も大打撃、県内の宿泊施設の相次ぐ予約キャンセル。
県内は猛烈な経済的ダメージを受けていた。
年間700万人の観光客が訪れる石川県は、やはり大丈夫ではなかったのだ。
支援の在り方
「ソウルでやることになっていた社員研修会だけど、能登に変更したら、どうかな?」
翌日、私は幹部を呼んで意見を求めた。
会社の創立45周年記念の社員研修会が、当初、韓国のソウルで行うと決定されていた。
旅行会社も手配済みで、準備はすべて整っていた。それをいきなり、キャンセルして催行地を能登にしてはどうかと言い出したものだから、みなキョトンとした顔を私に向けて「はあ・・・?」と、ため息ともとれるあいまいな返事をひとつしただけだった。
被災地では経済的なダメージが大きい。
そこで、社員研修の場所を能登に変え、現地で少しでもお金を落とすことで、貢献したいと私は考えていたのだ。社員研修はすでに決まっている。「同じ予算を使うのであれば、被災地で」が我々にとって最初にできる、しかも被災地の人々が最も望んでいる復興支援ではないだろうか。
わざわざ被災地に出向いて行って、遊ぶ、食べる、飲む、というのは不謹慎という人もいるだろう。しかし、観光で成り立っている石川県に客が来ないことで最も困るのは被災地の人たちだ。不謹慎という通り一遍の考えが二次災害を生むのである。
私は、幹部たちに言った。
「机の上で考えていても、何もわからんよね」
我々がいつも、子どもたちや親に言っていることだった。
その目で見て、五感で感じて、そして、何が大切なのかを、教えられるのではなく、自分で考える。それは、キッズ・ランドの体験学習そのものだった。
そして、今、教育のプロである私たちが、その立場に立っている。
結論は簡単だった。
「まずは、能登にいって、この目で確かめましょう」
幹部たちから、自然と出た言葉だった。
石川県能登島へ
その翌日、私は入っていた予定をすべてキャンセルして、幹部二人と能登へ向かった。
到着後、すぐに向かった外浦にある奥能登の中心地、門前周辺は、三軒に一軒が半壊、倒壊しているといった印象だった。
しかし、私が住む京都や東京などの大都市部とは異なり、全体的に過疎地であるため、パッと見ただけでは、被害状況が把握できない。
そして我々の野外活動施設、キッズ・ランドは施設管理をしていた者が電話で言っていたとおり、被害はまったくといっていいほどなかった。
なるほどここは「大丈夫」なわけである。しかし少し歩いてみると、キッズ・ランドのとなりのゴルフ場のクラブハウスの屋根が壊れているのが見える。経営に影響が出ていることは間違いなかった。自分たちだけがよければいいのではない。
キッズ・ランドでは「自然に感謝の気持ちを持ち、相手の立場に様々な方向から寄り添う感性を磨く」をモットーに子どもたちに野外活動を促してきたはずだ。
私が被災している土地を訪れ、その土地の人たちと話をし、自分に何ができるのかを考えることは、考えてみれば当たり前のことだった。
この目で見て、聞いて、知れば知るほど状況は深刻だった。
輪島市のある温泉旅館は震災後の二週間で、8000人にものぼるキャンセルが出ていて、閑古鳥が鳴いていた。
石川県で人気のゴルフ場も、客足がパタリと途切れ、支配人は困り果てた顔で、その様子を私たちに淡々と話してくれた。
そこには地震による被害そのものよりも、観光地としての生活基盤がある地域住民の生活そのものが成り立たないという二次災害に苦しむ現状があった。
それ、見たことか−。私は同行していた幹部二人の顔を見た。
「ソウルはやめて、社員研修会はここに変更しましょう」
当たり前のように二人が答えた。
これで、決まりだ。
我々がこの場所で社員研修会を行うことで、多少なりとも宿泊施設に貢献することができる。飲食業も然りだ。
あとは、アクティビティーで地域にどう貢献するかであるが、私の頭に真っ先に浮かんできたのが、甚大な風評被害を受け、客足が遠のいてしまっている輪島市だった。
社員研修会に併せ、地域を盛り上げてはどうか。
こうして視察を終え、試行錯誤の上に提案されたのが、能登半島地震復興支援アクト−社員研修ツアー−である。
目的は、地域の人を勇気付けるためのイベントの開催、地域が潤い笑顔を取り戻してもらえる社会貢献、そして、それらのボランティア活動から生まれる成基コミュニティグループ従業員の喜びや感動の体験である。
そのイベントのひとつが「バスケットボールJrワークショップby森下雄一郎」だ。
これは成基コミュニティグループの社友で、夢現塾の講師を務めているプロバスケットボーラーの森下雄一郎に協力を仰ぎ、過去において全国でも指折りのバスケット王国であった輪島市の小・中学生を集めて、ワークショップとライブトークを行うというものだ。
また、一般向けとして、私が日頃から交流のある元大阪近鉄バッファローズ監督・NHK野球解説者の梨田昌孝氏と女子プロゴルファー横峰さくらの父・さくらパパこと横峰良郎氏の賛同による講演会や、同氏参加による「横峰・梨田杯チャリティゴルフコンペ」の開催、輪島市・七尾市への義援金贈呈などが計画された。
20年もの年月、のと島キッズ・ランドで2万人を超える子ども達を育てていただいた地域に何らかの恩返しができれば・・・。その思いをかみ締め、2007年6月6日、我々一同は能登へと旅立ったのである。
※ 次回は続きです。