第23話 : ひとりのメンターが残してくれたもの
ひとりのメンターとして
二〇〇八年一月、成基学園で講師(弊社ではメンターと呼んでいる)として三十年以上勤めてきたひとりの男、杉尾嘉信が退職を機にひとつの小冊子を残して園を去った。
講師歴五十五年中、その半分以上のキャリアを成基学園で持つ杉尾は、中学部社会科を担当していた時の子ども達からはダントツ人気のあるメンターである。
年齢からは想像できない教育への情熱と年輪が培ってきたスペシャリストとしての誇りが絶妙なバランスを醸し出しだしている杉尾を、私自身も心から尊敬していた。
杉尾は、メンターとして完璧と言っても過言ではなかった。
“自分の進路を明確に持つ人だけが、苦しいことに耐えられる力を持てる。そればかりか、毎日の生き方が目標のために工夫される”
子ども達にはそういい続けてきた杉尾だが、杉尾自身の子どもに対する思いも半端ではない。
杉尾がまだ園でメンターとして働いていたある日のこと。
彼はいつものように教室へ入って授業を始めたがその日はどうも体調が良くなかった。
「あかん、きょうはしんどうてあかんわ・・・。おい、お前らちょっと前の机を四つくっつけてくれるか・・・」
心配していた子ども達は我先にと飛び出し、手前の机をガガガっと合体させて簡易ベッドを完成させた。杉尾はその上にドサッと身を横たえるとそのまま授業を始めたのである。
子ども達は口を揃えて語る。
「教え方がうまいのもそうだけど、杉尾先生の授業はめっちゃ面白いねん!」
杉尾にはいつも子ども達に対する愛があった。
彼にとって、子ども達を教えるということは、また彼自身も子ども達から多くを与えてもらっていることなのだと言う。
実はこの時、杉尾は癌を患っていた。
後にそれを知った子どもたちは「先生!私たちのために絶対に教室に戻ってきて!私たちのために絶対に死なないで!」と口々に叫んだ。
普段、大人しく冷静に授業を受けていた子どもたちからは考えられない言葉だった。
私たちのために戻ってきて!
杉尾には、忘れられない言葉であっただろう。
彼がひとりのメンターとして、他のメンターのために残した小冊子の中にはこんな言葉が書かれている。
“園生はいとしい→いとしいから「溺愛」ではなく「慈愛」を!”
むやみにやたらめったかわいがるのではなく、愛情を込めて見守ることが親にもメンターにも必要だと杉尾は言っているのだ。
愛情の「質」まで突き詰め、子どもたちの力を伸ばすことに全力を注いだ杉尾らしい文句である。
杉尾は誰の目から見ても一流のメンターである。
彼自身、自分は優れたメンターだという自負がある。そしてその自負をもたらしたのは他の誰でもない子ども達である。
この冊子には、子ども達が杉尾に当てた多くの手紙や感想文などが直筆のまま載せられている。これを読めば彼がどれだけ子どもたちに愛されていたのか、また信頼されていたのかがよくわかる。
溺愛ではなく慈愛こそが、子どもが大人に求めているものであることを改めて知ることができる。杉尾が子どもたちの杉尾に当てた手紙や感想文から若いメンターたちに伝えたかったのはこの部分ではなかったかと私は思う。
しかし、慈愛はときに熱い叱咤激励となって子ども達を怒鳴ることともなった。
「どうして、同じ年だけ生きてきたのにできる者と、できない者がいるのか?悔しいと思わんのか!思ったら、その気持ちをカバンにいっぱい持って帰れ!」
その言葉に気づかされ、やる気を奮い起こした子どももいた。
杉尾にとっては、子ども達ひとりひとりが自分自身であった。
彼は、今学園におけるメンター研修会で、小冊子に記した実例や子どもたちの生の証言を例にとり、どんな授業を行い、どの場面の、どんな時に、どんな話をし、その中で子ども達が何を理解し、どう変化したのかを知ることが一番大切だと考えていた。そして各メンターひとり一人が具体例を持ち寄りそれを素材にして指導のあり方を研究するようになればと切に願っているのである。
各メンターは、杉尾までとは行かなくても子ども達との関わりの中で、優れた事例、実践をたくさん持っているはずである。
その宝をメンター共通の宝にして、成基学園の宝にすることこそ、学園そのものの教育力が向上することに繋がるはずだ。その宝を出し惜しみしてはならない。オープンにすることでその宝は一層磨かれるだろう。新しい宝はその宝を磨くことから生れ、磨かれなかった宝はやがて錆びて朽ち果てていく。
杉尾は、小冊子にメンター人生に得たすべての宝を書き記した。
そして、若いメンターたちは杉尾が残した宝を磨き、新しい宝を作り出す使命を背負っているのである。
組織には人・道具・ノウ・ハウがある。これは私がよく言っていることだが、そのノウ・ハウこそ杉尾のような人間が残していった宝に他ならない。
人材があってこそノウ・ハウがある。いい人材は素晴らしい組織を創る。そしてその素晴らしい組織のために各自がパーソナル・ミッションを背負い宝を磨き続けて組織の宝(グランド・ミッション)に育て上げるのである。
以って瞑すべし
杉尾が子ども達にもっとも人気あるメンターであった大きな理由のひとつに「つかみの技術」がある。
つまり授業や講話の最初のひとことにメンターは何を話すか、ということである。
落語や漫才の話芸ではこの最初の一言を「つかみ」と言うのだそうだ。
この一言によって聞き手は話し手に引き込まれるという。
杉尾は、この「つかみの技術」を自分の授業にうまく取り入れていた。
しかし、杉尾の「つかみの技術」は子ども達を授業に引き込むだけでは収まらなかった。
子どもたちの心をつかんでしまう技術も備えていたようだ。
彼は、十四歳のときに特攻隊要員となった戦時中のことを機会があるたびに生徒や保護者たちに話して聞かせた。聞いているのは当時の杉尾と同年代の十四、五歳の中学生だ。
「何万人という子ども達がみなさんと同じ年代でこの世を去りました・・・。今のみなさんの平和と豊かさは、この人たちの犠牲の上に作られた平和と豊かさなのです。今、生きている者は真剣に生きなければ、この人たちに申し訳ないと思いませんか?」
そう杉尾は子ども達に言い続けたが、戦争で亡くなっていった人たちに申し訳ないからと、誰よりも今を必死に生きようとしていたのは杉尾自身ではなかったか。
戦争で友人を失い、自らも死を覚悟して海軍飛行予科練習生として死を覚悟していたこと、そして両親と別れなければならなかった時の言葉では言い表せない苦悩。
十四歳であった当時の様々な経験を話しながら彼はこう言っていた。
「誰でも一生の中には人に話せない悲しい思い出や、辛い思い出がある。しかし、悲しいからこそ、辛いからこそ、人はその思い出の中から大切なものを見つけることができるのです。私が公立学校での教員を経て、七十七歳になるまで成基学園でメンターを続けることができたのも、無念の死を遂げた友人の分まで勉強しておかなければ、生き残った者として死んだ者に対して申し訳ないという思いが私の心のどこかにあったからかも知れません」
杉尾は園を去っても、まだ自分に何かできることはないかと考え、若いメンターのためにこれらをすべて書き記して小冊子を残したのだと思う。
彼は小冊子の最後をこう締めくくっている。
「私は、成基学園の素直で純粋な感受性豊かな園生と出会うことができた。これこそが、金銭で求め得ない私の宝物であると考えている。これだけの園生との出会いができたことは私の誇りであり、メンターを辞した今、“以って瞑すべし”と自問自答している。余った人生は少ないが、私はまだまだ“生きる”ということと“学ぶ”ということを十分理解していません。生きることとは何か、学ぶこととは何か、考え考え余命をいとおしんでいきたいと考えております」
杉尾嘉信という、ひとりのメンターが残した宝はあまりにも大きい。
私は杉尾が残した小冊子を、宝とし、若いメンターとともにその宝を磨き続けていきたいと切に願っている。