2009.02.02   

第25話: 「喜感塾」で自分を語る その1

過去を完了しなければ前進なし

二〇〇六年より、私は弊社社員の有志を集めひとつの勉強会を開始することにした。

 名づけて「喜感塾」。

 この塾は喜びや感動を与える能力を身につけることから名づけられた勉強会で、講師などは存在しない。

 私はファシリテーターとして参加している。

 喜感塾は、約二ヶ月に一度、二年で修了。

 希望者のみ9名でスタートし、参加者の年齢層は広いが、みな実際現場で子ども達に指導している社員である。

 その「喜感塾」が二〇〇八年末、卒塾式を迎えることになった。

 卒塾式のテーマは「自分史」である。

 弊社の社員は、以前からみなパーソナルミッションを掲げ仕事に取り組んでいる。

 その個々のミッションの集合体が、弊社のグランドミッションを作り上げていくということは以前お話したとおりであるが、社員たち(私も含めてである)が掲げているミッション(夢と人生目的の中での自分の役割)を具現化していくのは簡単なことではない。

 また、すぐ手を伸ばせば届くミッションなど、わざわざ掲げる必要もないし、そんな安易なミッションの集合体で、弊社のグランドミッション達成は成し得ないというのが私の率直な意見である。

 では、雲の上のような位置に掲げているパーソナルミッションを日々の業務の中で、どのように具現化していくのか−。

 二〇〇六年の秋より始まった塾では、自分という人間を改めて理解し、社会の中で自分の能力をいかに生かすかを探求し続けていく。

 そして卒塾式で参加者は、それぞれの「自分史」を発表することで、「自分を今一度振り返り、パーソナルミッションを血肉化しよう」というのが最終目的だ。

 では、なぜ自分の過去をわざわざ他人の前で振り返ることが必要なのか−。

 人(大人)は基本的に、自分の過去と相談して未来を決めたがる安全パイ思考を持っている。

 例えば、心から親友だと思っていて本音で付き合っていた友人から裏切られた過去を持つ人は、あんな辛い思いは二度としたくないと考え、その後はうわっつらだけの対人関係を好む。また、何度も恋愛に失敗している人は、もう二度と本気で人など好きになりはしないと自分に言い聞かせる。

 このように人間とは、過去の経験から自分自身が傷つかないよう、無意識に安心・安全の中に自分の身を置きたがるものだ。

 そして、その人にとっての「安心・安全の定義」とは、過去の経験によって、その枠組みが形成される。

 弊社社員のパーソナルミッションは、例えればそれぞれが、「とてつもなく大きな服」といえる。

 ところが現実は、みな大きな服(大きな夢と人生目的)を着たいと言いながら、小さな服(安全・安心)に甘んじてそこから前に進めないでいる。

 大きな服に袖が通せないのは、過去にあったあの出来事のせいだ、過去に出会ったあの人のせいだ。だから大きな服は怖くて着ることができないと無意識のうちに自分を正当化している。

 無意識だから、当然自分では気づくことはできない。

 この勉強会は自分史を語ることで、いつ、何が原因でその人が小さな服に身を収めるに甘んずるに至ったのかを参加者全員で探求し、その原因である「過去を完了」させ、小さな服を脱いで、パーソナルミッションに向かって歩き出してもらおうというのが一番の狙いなのである。

人は人から学ぶ
 
 「自分史」を語ることは、自分の過去から大きな「気づき」「学び」「発見」がある。

 語る中で、過去を引きずって前に進めない自分がいることに「気づく」だろう。

 そして、過去を完了することの重要性を「学ぶ」ことが必要だ。

 過去の完了(小さな服を脱ぐ)がないと、前進(大きな服に袖を通す)はない。

 結果、パーソナルミッションの達成はありえないというわけである。

 さて、自分史を語ることで、もうひとつ大切なことがある。

 自分史の語りを聞いてくれる塾の仲間たちである。

 語ることは重要だが、自分史へのフィードバックを他人から受けることで、今まで知らなかった自分を「発見」できる。

 これは客観的に自分の過去、自分の性格、そして「安全・安心の枠」に自分を閉じこめた原因を明確に知ることができる。

ある女性社員Kさんは、自分史をこう綴っている。

 彼女は小学校のころ優等生で、成績優秀、常にリーダー的存在だった。

 しかし、小学校六年生の頃、父親の仕事がうまくいかず経済的に不安定となる。

 彼女は、その後、「友人から仲間はずれにされた」「経済的な理由から夜間大学へ進学した」「離婚した」「再婚話がこじれ、苦悩した」と人生の苦境を語った。

 そして、様々な人間関係の亀裂から「人とは深く付き合うものではない。浅く、広く、揉め事を起こさないようにが基本」と対人関係に置ける彼女の不文律を締めくくった。

 すなわち対人関係で躓いた彼女にとって、「安全・安心」とは、人とは深く関わらないスタンスに身を置くことである。

 自分は正義を貫き、まっすぐに生きているのに、周りは認めてくれなかった、という過去の繰り返しがそうさせているのだ。

 その後、話を聞いていた塾生の一人からこんなフィードバックが起きた。

 「あなたが、とても優秀で正義感が強く、人一倍がんばってきたことは認めます。塾の先生として子ども達に真摯に向き合っているも・・・。ただ、あなたの物事の判断には少々疑問を感じますね。何故なら、あなたは物事を『善と悪』でしか判断していないからです」

 「・・・?」

 「『善と悪』で判断することは間違っていることではありません。ただ・・・、多くの人は『善と悪』ではなく、『好きか嫌いか』で物事を判断するものなんですよ。そのあたりは分かっていましたか?あなたが一所懸命、正しいことをしていても、あなたのことを嫌いな人が、それを認めたくないのは当然のことでしょう?その判断は、善悪ではなく単なる好き嫌いから来ているからです」

 それに対し、Kさんは言った。

 「私自身、自分が“我”の強い人間であることは認めています。その“我”を緩めて相手を認めればいいということでしょうか?」

 「そうではなくて、あなたが正義感が強く、それをつらぬくことは立派だけれど、『善と悪』に価値観を置いていない人には、あなたの考え方は通用しないということなんです」

 「だから、私が“我”を通さなければ済むことでは?」

 「それでは、何も変わらないじゃないですか。私が言いたいのはそういうことじゃないんです!“我”が強いのは決して悪いことではありません。私はあなたにその“我”を自分のためではなく、周りのために使って欲しいと思っているんですよ。そうすれば、“我”の強さはマイナスではなく、プラスになるでしょう」

 「・・・」

 少し、何かを思案していた様子だったが、その後、彼女は現在の自分についてこう語っている。

 「過去の苦しみがあったから、今の幸せが得られた。すべては私にとって必要なことです。

 そして、これからは『身の丈にあった生き方』をしたいな、と考えています」

 間髪いれず別の場所からフィードバックの声が響いた。

 「それは、いい方を変えれば“ほどほど”つまり“中途半端”ってことになりませんか」

 「私は、今の自分にあった生き方をすれば、必ず何かが還ってくるはずと考えているだけです」

 再び別の誰かの声が飛んだ。

 「それは、やっぱりおかしいなあ。Kさんほど能力のある人が今の自分に甘んじてるなんて・・・。誰が聞いてもおかしい。だから、身の丈にあったなんて言葉、ボクもおかしいと思いますよ」

 セミナー室が静まり返った。

 私は黙って聞いていたが、これらすべてのフィードバックには、彼女が「気づき」を得る多くのヒントが隠されていた。

 このフィードバックスキルがあってこそ、自分史発表者は、小さな服を脱いで大きな服に袖を通す勇気が持てるのだ。

 質のいいフィードバックなくして、この勉強会の意図するところは達成できない。

 しかし、どんなに厳しいフィードバックが出ても、最後は参加者全員がその様子を温かく見守り、大きな拍手を送る。それで過去を完了させ、前に進む。

 「自分史」を語ることは、その「自分史」に関し、フィードバックを返してくれる人から学ぶことでもある。そして、そのフィードバックも生半可なものであってはならない。

 語るものだけではなく、フィードバックスキルを向上させるのもまた重要なポイントなのである。

 最後にKさんは二年ほど前に掲げた自分のパーソナルミッションを堂々と読み上げ、自分史の発表を終えた。

すべての若者たちに、あふれんばかりの愛情を注ぎ、育み導くことで、世の中に貢献できる豊かな心を持つ人間を育成し、誰もが生き生きと幸福に暮らせる世界を築くこと。

その時点から、パーソナルミッションの意味は、彼女にとってもっと現実的なものとなって見えてくるに違いないだろう。

 *次回も引き続き、喜感塾についてお話します。

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