2009.02.16   

第26話:「喜感塾」で自分を語る その2

フィードバック・スキルの徹底研究

今回も前回に続いて「喜感塾」についてお話したい。

二年間にも渡る勉強会は、卒塾式を迎えた。(詳しくは第25話参照)

そして、それぞれの社員は考えに考えて、様々な形で「自分史」を語り終えた。
 大事なのは、その後だ。

果たして、この「喜感塾」への参加は、彼らの中にどんな「チェンジ(改革)」をもたらしたのだろう−。

ある塾生Kさん(男子社員)は「自分史」を発表し終えた後、こう語っている。

「自らの意思で参加したものの、正直、自分史を作成することは嫌でした。作って発表するまでは・・・。自分の中に隠してきたことを表にだすのは非常に勇気のいることで、できればやりたくなかったのです。ただ、やりきった後に見える“自分らしさ”は勇気を出して取り組んだからこそできたのだと思います・・・。また、この勉強会で感謝したいのは参加者からもらったフィードバックです」

彼が「喜感塾」で得たものは「自信」である。

誰もが隠してきた過去を人前でさらけ出すのには勇気がいる。

「こんなことを知ったら他人はどう思うのだろう?」「これを話したら自分は嫌われるのではないか?」とつい考えてしまいがちだ。

しかし、冷たい言い方をすれば他人は自分の一大事をそれほど大事(おおごと)とは感じてはいない。

つまり「他人事」というわけだ。

例えば、足が太くて死ぬほど悩んでいる女性がいたとする。

欠点をカバーしようとファッションに様々な工夫を凝らしている。

そのために金銭も費やしているのだが、他人は自分が思っているほど「あなたの足を見ていない」のだ。

これは無関心という意味ではない。

あなたにとって、あなたはたったひとりであるが、他人から見たあなたは他人の中のONE OF THEMである。それだけ他人が見るあなたはいい意味で、寛大だと言えるだろう。

「喜感塾」にとってフィードバックが何よりも大切だというのはこういった経緯からである。

参加した塾生にとって他人には言えないと隠してきた過去を、一大決心の上、話してみたところ、以外にも他人は「なんだ・・・そんなこと」「誰にでも似たようなところがあるよ」という結果に落ち着くわけだ。

そこで、自分史を発表した塾生も「この過去は過去のこととして完了していいんだ」と納得できるわけである。

この件については塾生のKさん(女子社員)が、このように気持ちを語っている。

「自分の感じている出来事の大きさは他者にとってはそれほど大きな出来事ではないことが実感できました。逆に自分にとってたいした出来事ではないことでも相手にとっては大きな出来事であるのだろうと考えるようになれたことは大きな成果です」

参加者は一様に他人が発表する「自分史」を聞きながら、共感したり同調したりする。

誰でも生きてきた中でのブレークダウン(失敗したり、落ち込んだり、トラブルに巻き込まれたり)があるものだ。

そのブレークダウンがもとで、安心・安全の中に身を置こうと学習してしまう。

そして、その安心・安全に甘んじて前に進むことができないでいる。
様々な細かい事情はさておき、この部分においてはみな大いに共感できるわけだ。

まずはブレークダウンに関し、参加者からフィードバックで共感を得ることは「自分史」を発表する者にとっては背中を後押しする大きな力となるだろう。

しかし「共感」だけでは互いを慰めあっているだけに過ぎない。

ブレークダウンはすでに過去の出来事だ。

過去をいつまでも引きずって、現在・未来と生きていくのでは「同じ失敗を繰り返すのは嫌」と、やはり安心・安全の中に甘んじているしかない。

では、具体的にこの勉強会ではどのようにフィードバックが展開していくのか。

 「喜感塾」に置ける参加者のフィードバックには
「共感」→「叱咤」→「理解」→「激励」→「期待」
というスキルが無意識のうちに備わっている。

それに平行して「自分史」を発表している者が得るものは
「安心」→「気づき」→「承認」→「過去の完了」→「パーソナルミッションの具現化」をフィードバックから得ることとなる。

「自分史」を語ることに、高度なフィードバックスキルが不可欠なのはこういった意味があるからで、このように高度なフィードバックが自然と流れるのは、「フィードバックをする者」もまた「全員が発表する者」であることから生れる暗黙の相互関係であることを忘れてはならない。
 

自分を深く知ることを恐れるな

塾生のひとりTさん(男子社員)は、「“自分史”は相手をよく知るため、あるいは自己開示をスムーズにするための有力なツールとなる」と後に語っている。

自分という人間を改めてよく理解することは、社会の中で自分をいかに生かしていけるかを考えることだ。
しかし多くの人は、ブレークダウンの経験からそれを回避しているのが現実である。

自分を知ると、不思議と相手がよく見えてくる。

社会の中での自分の明確なパーソナルミッション(自己の人生目的・天命)が明確化すれば、そのミッション遂行のために関わる人ともうまく共同作業しようとするのが自然だ。

そのため、人の意見をよく聞いたり、互助の精神が生まれてくれば当然、相手が求めているもの、必要としているものが明確に見えてくる。

「自分史」の作成と発表は、自分を知るに留まらず、その後の人との関わり合いをも変化させる力を持っているのである。

先に述べた女子社員のKさんは勉強会への参加をこう締めくくっている。

「過去を過去に置く経験を自分がしたことで、様々な問題を抱えている人を冷静に見られるようになり、乗り越えることができない問題はないと思うようになりました。自分の世界だけで生きていた自分にとって、様々な人の人生に触れることは世界が広がるということと同時に自分の行動を客観的に見れるようになりました・・・。そして、他者に対して攻撃的でなくなり、優しくなれたのです」

最後の「攻撃的でなくなった、優しくなれた」という行動の変化はまさに自分を深く知ることで、相手を知る行動の現われだと私は思う。

人は誰でも攻撃的な相手を前に自分をさらけ出したりはしない。

他人を知るためには、自分を知り、客観的な立場から自分の行動を観察し相手に対応することが必要だ。

結果、攻撃的ではなく相手を受け入れる姿勢こそが、相手の心を開く、つまり相手を知る方法であることに気づくだろう。

人間の心理とは不思議なものだ。

自分史を語るなど苦痛で仕方がないという反面、誰かに自分のことを聞いてほしいという強い欲求が同居している。
本質を問えば話したくてうずうずしている、というのが正直なところだ。

それを邪魔しているのは「嫌われるかもしれない」「バカにされるかもしれない」という他人の自分に対する評価だろう。

先にも述べたが、「喜感塾」では全員が発表する側で、聞く側となる。

それだけに聞いている側も「人に受け止められたい」という発表する側の気持ちを誰よりも身にしみてわかっている。

だからこそ共感を覚え、しかしそれだけに留まらず建設的な素晴らしいフィードバックができるのだ。

果たして、自分史を語ることは、発表する側にとっても、聞く側にとっても究極のプレゼンテーション実習と言えるのではないだろうか。

是非、多くの企業の社員の方にもお勧めしたい。
 
*次回は「喜感塾」を終えて、私が思うことについてお話します

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