第27話 :「喜感塾」を終えて私が思うこと
自己肯定に気づく
前回二度にわたってお話をさせていただいた「喜感塾」であるが、今回は私自身が感じたことを率直に述べたい。
まず、この勉強会は当初私が期待していた以上に、いい結果を生んだ。
その理由は、参加者全員が直接子ども達に現場指導している立場であったことだと考えられる。
彼らは仕事柄、生徒や学生コーチ、保護者からいろんな話を聞く立場にある。
社員たちがこの勉強会から何を学び、どのように現場で「その学び」を実際取り入れているのか−。
「喜感塾」に参加したAさん(男性社員)は、勉強会のあとにこう述べている。
「この勉強会に参加してから他人の発言や行為に対して肯定的に考えられるようになりました。話を聞くときも、生徒や保護者の方々の様々な事情を考えて聞くことができ、自然と涙が出るときもあります。“その人がそのような発言をするに至った過去”について興味が持てるようになり、私の発案に対しての否定的な意見や、勉強に対してあまり意欲のない生徒を見てもじっくり話を聞くことができます。つまり、今、目の前にあるものを受け入れることについて自信が持てるようになったのです」
さて、みなさんは彼のこの言葉の中から何を感じ取っただろう。
「自信」「寛大さ」「包容力」「リーダーシップ」などではないだろうか。
が、彼のこれらの変化をたった一言で表現するならばそれは「SELF ESTEEM (自己肯定感)」という言葉が適切であると私は考える。
ずいぶん前になるが、私はこの寺子屋塾で、ニートの若者との出会いを描き、この自己肯定感について詳しく語っている。(詳しくは第一話参照)
「自分を好きになるためにここへ来た」と言ったニートの青年の言葉を私はことあるごとに思い出す。
そして、その自己肯定感は今回の「喜感塾」においても、最も大きく取り上げるべき訴求ポイントだろう。
もちろん、「喜感塾」の塾生はこの勉強会への参加動機を「自分を好きになるため」などとは全く位置づけていない。
それもそのはず、参加した塾生は現場で子ども達と向き合えば、それぞれ魅力ある授業を展開できる有能な社員ばかりだ。
社会的な立場と社会参加や貢献度から考えれば、ニートの若者と「喜感塾」の塾生とは比べ物にならない。
それだけに「自分のことが好きか、嫌いか」を自問自答することなど頭の片隅にもなかったはずだ。
それがどうだろう−。
勉強会を終えてみると、「過去を否定しない」「自分を受け入れることができた」とみな一様に語っている。
過去を受け入れることは自己肯定の第一歩である
自分の過去を見ることは、自分の未来に責任を持つということでもある。
言い換えれば、過去を受け入れない未来は「無責任な未来」ということになる。
そんな未来に向かって歩いている自分をどう肯定できるというのだろうか−。
未来へ進む時、そこには未来を形成する過去がある。だからこそ、過去と向き合い、そこから学び、気づき、発見することで「未来」を「同じ過去」にするべきではないのだ。
私が今回の勉強会で一番うれしかったのは、参加者の中にこういった気づきに導くことができた結果で、何人かの参加者が堂々と「今の自分が好き」と述べてくれたことでもある。
彼らの細かい感想を振り返えれば一目瞭然。
「他人に優しくなれた」これは、他人に優しくできる自分への肯定感である。
「他人に感謝の気持ちが生れた」これは、何事にも感謝できるようになれた自分への肯定感である。
「相手の気持ちを察し、発言に注意するようになった」これは思いやりを持つことができる自分への肯定感である。
そして、誰もが感じた共感「人に受け入れられたと感じた」は、自己肯定感に繋がる原点とも言えないだろうか。
自己を肯定することはナルシズムや自己満足とは大きく異なる。
他人に認められて、「自分はこれでいいんだ」と魂で感じなければならないからだ。
それだけに、自己肯定感の向上はごまかしがきかない。
しかし、理想の自分を描き、それをひとつずつ実行していけば、自己肯定感は必ず上る。
“他人に優しくできる人間が自分の理想としている人間像”であれば、そう接することだ。
“他人を悪く言わない、思わない人間が自分の理想としている人間像”であれば、悪口は決して言わないことだ。
“誰かを見捨てる人間より、救う人間でありたいと願う”のであれば、困っている人がいれば無条件で手を差し伸べることだ。
自分の理想像とは何かが明確であれば、自己肯定感の向上は、決して難しいことではない。
事実、今回の勉強会は参加者にその気づきをもたらしてくれたのだと私は思う。
自分史を語る上で、自分を肯定できるものとは何か、それが自ずと見えてくるのだから・・・。
ところで私は以前、こんな言葉を熟生たちの前で口にしたことがある。
「高くジャンプしたかったら、その分、低くかがむやろ?」
ジャンプするという身体行為だけから考えればかがむのは当たり前のことだが、この行為は我々の人生にも相通じるものがある。
ブレークダウン(失敗したり、落ち込んだり、トラブルに巻きこまれたり)は時に必要ということだ。
人生には良かれと思ってチャレンジしたことでも、それが受け入れられないことがありやむを得ず、後退することもある。これこそが「高いジャンプ(チャレンジ)のために低くかがむ」に値することである。
次のステージで成功するためには、時にはそのような後退も必要となる。そこから来る学びや気づき、発見が新たなハングリー精神を生み出し、より大きな成功を産むのである。
自分史を語った塾生たちにはその発見があったはずだ。
がんばれるのは、過去に自分を否定した人や物事があるから−。
その否定に感謝し、その感謝とともに未来へ大きくジャンプ(チャレンジ)すればいいのだ。
“崖から飛び降りる時、自然と翼は生えてくる−”
私はこんな気持ちで仕事(チャレンジ)に取り組んでいる。
大きなチャレンジにはリスクがつきものだ。その「リスク」を「崖」と例えるならば、「翼」は「周囲のサポート」である。
つまり、チャレンジには必ず翼(サポート)があるもの。だから、恐れることはないと考えているのである。
果たして、この度の「喜感塾」では、最初はみなが「自分史」を語ることに恐怖と嫌悪感を持っていた。
しかし、勇気を持って崖から飛び降り、チャレンジしてみれば、周りから大きな拍手が送られ承認された(翼が生えた)自分に気づくだろう。
こうして過去を完了させ、彼らはその翼でパーソナルミッションに向かって高く飛ぶことができるのである。
翼をもらった者が、また翼を与えた者になっていたのである。
そして塾生たちから最も大きな翼をもらい、最も高く飛ぼうとしているのは私自身であることを最後に付け加えて、この「喜感塾」を締めくくりたい。
*次回は私自身が語った「自分史」元気支援システムについてお話します。