前回までは三回にわたって、自分史セミナーの意義についてお話させていただいた。
自分史をしっかり見つめ、形として描き出し、人前で発表することが、未来の道標を明確にするためにどれほど有益であるかは、理解いただけたと思う。
そして、私が、この自分史セミナーで最も言いたかったのは「臭いものにフタをするな」、つまりインナーチャイルドへのアクセスを拒むなということであった。
これは自分史に限らず、日々の生活の中でも言えることだ。
私の著書に「人生はエクササイズ」という本がある。
つまり、私たちはエクササイズをするために生きている、いや生かされているということである。大抵の人間は、人生何の苦労もなく、楽しく“楽”して生きたいと思うものである。しかし、自ら困難なことに立ち向かい、それを修行のような形として受け入れ、人生に挑んでこそ、生きている意味があるのではないだろうか。悩みがない、お気楽な楽しみばかりの人生に達成感や前途はない。
「臭いものにフタをするな」とはすなわち、自分にエクササイズを課すことを否定するなということなのだ。インナーチャイルドへのアクセスもこのエクササイズに当たる。
自分史を作成し、語ることは、このエクササイズのひとつの手段であり、自分史を語ること自体が目的ではないのだ。
自分史は過去の出来事の「臭いフタ」をあけることでもあるが、それを行うことで、現在の日常生活や仕事においても、「臭いものにフタをしない」習慣ができてくる。
では、日常生活における些細な「臭いフタ」とは何か。
一番わかりやすい例、子どもたちの日常に出てくる様々な「臭いフタ」についてご紹介しよう。
「嫌なことは後回し」「嫌いなものは食べない」「勉強したくないからしない」「面倒くさいから掃除をさぼる」などがそれに当たる。
このような場合、子どもに「やる」という行動を実行させるのがまず親の叱咤である。
すると子どもは、「嫌だけどお母さんに怒られるからやる・食べる」となってしまう。
が、大切なのは、子ども自身に臭いものにはフタをすべきではないと「気づかせる」ことなのだ。これは私が以前にもお話した「教育コーチング(気づきを引き出す)に通じることである。
「嫌だけど自ら勉強する」それは「何のためか」、「誰のためか」。
「嫌いだけど自ら食べる」それは「何のためか」、「誰のためか」。
子ども自身に考えさせ、気づかせ、受身ではなく自ら能動的に臭いものにフタをしない生き方を身につけていけば、困難(臭いもの)からは逃げるものではなく、立ち向かうものであると考えるようになるだろう。
これは、いきなりやれといってもできるものではなく、日々些細なことから「臭いものこそフタをするな」という習慣を身につけておくことが必要なのである。
これを弊社では、自分史、インナーチャイルドへのアクセスという形で、社員たちへの刷り込みをしてきたわけだ。
この刷りこみを終えると、臭いものにはフタをすべきでないという概念が根付き、そこから本当の前進が始まるのである。
「自分史作成⇒発表⇒エンド(終わり)」ではなく「自分史の作成⇒発表⇒スタート(始まり)」となるわけだ。
人の生き方には大きくわけて二通りある。
ひとつは先ほど挙げたように、臭いものにフタをせず、困難に立ち向かい、チャレンジを続ける「エクササイズ型」、そしてもうひとつは楽して楽に生きる「リゾート型」である。
一見、リゾート型の人間の方が、傍から見れば楽しそうに見えるかもしれない。
しかし、私はリゾート型の人間の方が、圧倒的に苦しみが多いと思っている。
楽しか好まないリゾート型人間は、苦しみを感じるハードルが非常に低い。
わかりやすい例がある。
ある金持ち専業主婦は、子育てを終え、夫が会社で働いている日中はのんびりテレビを見たり、友達とデパートでショッピングをしたりホテルの高級ランチを食たりてして過ごしている。
毎日あくせく働いている女性たちから見れば、お金の苦労もなく、優雅に昼間から高級ランチなど贅沢な限りだが、その主婦にとって贅沢なランチやショッピングは当たり前の日常にしか過ぎず、それほど“楽しい”とは感じていないはずだ。
普段から「楽」をしている分、少々楽しいことをしたくらいでは、楽しいと感じない。
毎日が休みの人にとって、日曜日は特別な休日にならないそれと同じである。
逆に、苦しさを感じるハードルは低い。普段、辛い思いをしていない分、ちょっとした苦労や手間でも、大きな苦痛に感じてしまうはずだ。
では、エクササイズ型はどうか。
普段から困難に立ち向かっているから、少々の苦労も苦しいとは感じない。人生のステップアップのための試練だと感じることができる。
臭いものにフタをせず、向き合うことも人生のステップアップだと捉えることができるのだ。このエクササイズ型の生活を、子どもの時から徐々に身につけることが、どれほどその子の将来に光を与えてくれるか、これでおわかりだろう。
たかが「食べ物の好き嫌い」「たかが朝寝坊」と思うかもしれないが、その「たかが」をしっかりと指導することが、子どもにとってのエクササイズになるのだ。
若いときの苦労は買ってでもしろ、とはよく言ったものだ。
神様はがんばった者だけに手を差し伸べてくれるのである。
私自身、振り返ってみると、「面倒くさいことは嫌」「勉強なんかしたくない」という子どもだったから、大人になってから様々な困難にぶつかり、そのたびに、一進一退を繰り返してきた。
そして、たどり着いたのが自分史セミナーだった。
子どもの頃にアクセスする、しかも子どもの頃にフタをした「臭いもの(インナーチャイルド)」に向き合う、これほどのエクササイズはない。
人生はエクササイズ型を選らんだものだけが「夢」を達成できるようになっている。
いや、リゾート型の人間には「夢」そのものが、思い浮かばないのかもしれない。
それとも「夢」という意味を履き違えているのか。
リゾート型人間の「夢」とはせいぜい「楽」して「金」を稼ぎたい。「楽」して生きてゆきたいと思うくらいのものだろう。
人間の「幸福感」とは、他人との比較の上に成り立つものでは決してない。
他人から見て、お金持ちで、家族にも恵まれていて幸せそうに見えても、本人が幸せだと感じていなければ、それは幸せではないからだ。
枯渇の中で手にする水ほど、水の価値は高い。
それが人としての「幸福感」である。
潤いの満腹の中で、その水の価値を見出すことは難しい。
ならば、枯渇の状態、つまりエクササイズ型の道を選ぶ方が、成功への、そして幸福への近道と言えるのではないだろうか。