2012,02.14     

61話:SEIKI交流隊×石巻フレンドシップ2011 その2

今回も第60話に続き、選ばれた成基学園の子ども17名を被災地に派遣し、被災地の子どもたちとの交流を図るプログラムについてお話したい。

フレンドシップ2011は、SEIKI交流隊が石巻市に住む、自分たちと同じ歳くらいの子どもたちを仙台市に招き、三日間を共に過ごしながら、互いの信頼関係を築こうというプログラムである。

交流隊の子どもたちは、一日目、津波の被害が大きく、まだ深い震災の爪痕が残る石巻市の視察を行った。

そこで、彼らは初めて、震災、津波の恐ろしさを肌で味わい、一瞬にして日常を奪われた被災者たちの気持ちに言葉だけではなく、初めて心から真剣に寄り添ったであろう。

そして、真剣に寄り添えば寄り添うほど、一体自分たちに何ができるのか、何をすればいいのか、もしかして何もできないのではないかという困難にぶつかったことだろう。

それほど、ガレキだけになってしまった被災地の現状は、目を覆わんばかりの光景だったに違いない。

 「目に映るのはガレキばかりで、バスから降りた時、自分たちがどこに立っているのかさえわからないほどの状況でした。全壊した建物のガレキの中に、ランドセルが落ちていたり、机やいすなど、私たちが日常で使う当たり前のものが散乱していました。そして・・・被災地は、見るだけならまだしも、私たちの嗅覚にまでその悲惨さを訴えて来たのです」

現場に降り立ち、その空気の中に立った交流隊の子どもたちが、まず感じたことは、「想像を絶する辛い経験をした被災地の子どもたちに何を話せばいいのか」−。

震災当時の出来事を聞いて、悲しみを倍増させたりはしないか。逆に楽しいことを勧めて嫌悪感を抱かれたりしないか、という自問自答であったはずだ。

これは、苦悩を抱えている人々に寄り添う際、誰もが考える不安要素ではないだろうか。

 当事者でない彼ら(交流隊)にとっては、無意識のうちに苦しみを背負っている被災者を傷つけてしまうかもしれない。もし、そんなことになってしまったら、このプロジェクトは全くの逆効果になってしまう。そう思っただろう。

ところが、自らも被災者で、現地を案内し、交流会をサポートしてくれた石巻復興支援ネットワークの兼子佳恵さんから出た言葉は、交流隊にとっては想像もしていないものだった。

「ぜひ、震災当時のことをみなさんから石巻の子どもたちに聞いてほしい」

 この言葉を聞いて交流隊の子どもたちはどれほど驚いただろう。

そのことだけには絶対に触れてはいけない、思い出させるようなことはしてはいけないと固く信じていたのに、正反対のことを言われたのである。

「大切なのは被災地の子どもたちが、当時のことを振り返り、しっかりと自分の気持ちを語るということなんです。そして、事実は事実として受け止め、前に進むことが大切なんです」

確かに兼子さんの言うとおりである。

どんな辛い出来事でも、起こってしまったことをなかったことにはできない。見てしまったものを見なかったことにもできない。聞いてしまったものを聞かなかったことにもできないからだ。

すべては現実として受け止め、私たちは生きていかなくてはならない。

 それには「語る」ということがとても重要だ。

交通事故や、災害、病気、自死などで、親を亡くした子どもたちの教育支援をしている、あしなが育英会は「つどい」を開き、子どもたちを集めて、親がなくなった一番辛い時期のことをお互いに語り合い、お互いが悲しみをシェアする「語りのプログラム」を積極的に取り入れている支援団体だ。

「語り」は、自分の心の中にある悲しみや苦しみを再認識し、自分自身と向き合う一番効果的な方法なのである。

自らも被災した兼子さんのその言葉で、この時、交流隊の子どもたちは、自分のやるべきことが何かについて、答えを導き出せたのではないだろうか。
 
 その後、交流隊は石巻市で缶詰工場を営む、木の屋石巻水産副社長の木村隆之さんを訪ね、現地産業の被災状況について話を聞くこととなった。

木村さんの工場は、津波により建物がほぼ全壊。工場に保存されていた缶詰も100万缶が流されたりガレキに埋もれた。その後、木村さんは埋もれた缶詰を拾い出す回収作業を延べ1300人のボランティアと共に開始した。

簡単に回収作業とひとことで言うが、大津波襲来の後、どこにいったのか、またどこに、どれだけ埋もれているのかわからない缶詰を探し、拾い続けるという作業がどれほどのものか、想像してみてほしい。

当然、回収できたところで、それが売り物になるとは木村さん自身、はなから思ってはいない。

それでも毎日探し、毎日拾い続ける。その繰り返しをボランティアとともに続けた。

そこには金銭的な損益ではない、仕事(缶詰づくり)に対する木村さんの「誇り」が、苦難に立ち向かわせたのだ。

こうして木村さんは、ガレキの中から、なんと、40万個の缶詰を見つけ、拾うことができた。もちろん1300名ものボランティアの力も大きかっただろう。

しかし、その1300名の心を動かし、無限のガレキ地帯から、それらをひとつ、ひとつ回収できたのは、木村さんの缶詰づくりに対する情熱、そして仕事に対する高い誇りと使命感ではなかっただろうか。

交流隊の子どもたちには、40万個という数の大きさだけではなく、それを成し得た人々の思いが何であったのかを考えてもらえたらと私は思う。

仕事=金だけではなく、仕事=誇り・使命と繋がっていけば、その人の人生は間違いなく成功し、幸せを手に入れることができるのだ。

木村さんの缶詰工場は確かに被災した。確かに多くのものを失った。

しかし、それとは反対に、彼自身が仕事への誇りを再認識できた出来事でもあっただろう。なぜならガレキの中から拾い上げた40万個こそが、彼の仕事に対する「誇り」を周囲の人に証明したからである。

 そして、その結果、40万個の缶詰は、食糧が不足した当時の被災地の人たちの胃袋を満たし、命をつなげたのである。

被災者が、仕事への誇りをかけて、被災者を救う―。

 木村さんのがんばりに、自分たちはテレビのニュースで何を見ていたのだろう、子どもたちはきっと、そう思ったに違いない。
 
 ここまでの石巻被災地の視察を終えた交流隊も、次のような感想を語っている。

「テレビ報道などを見ていると、震災から5か月(交流隊が訪問したのは2011年8月)が経ち、漁港などが復興している映像をたくさん見るようになって来ました。

だから私たちは、まさかこれほどまで今でも震災当時のまま、ガレキが放置された場所がこんなに広いとは思ってもみませんでした」

毎日のようにニュースで被災地のことは全国に伝えられているのに、自分たちが目や耳にしたこの事実が、きちんと伝わっていなかったことに、交流隊は愕然としたようだった。
 
 交流隊の一部のスタッフは、「阪神・淡路大震災」の被災者だ。

しかし、交流隊の子どもたちは、まだ生まれていないか、幼かったため、当時の記憶は残っていない。

ニュースで流れる当時の映像、学校で毎年行われている「追悼式」、両親や教師から聞く話だけが、彼らと大震災を繋いできたのである。

しかし、東北地方に行き、彼らは「震災」というものをリアルに感じた。

そしてこの時、ようやく自分たちの町で起きた「阪神・淡路大震災」のことも、より身近な出来事として受け止めることができたのである。

住む家があること
 学校にいけること
 家族や友人がいつもそばにいること
 健康に過ごせること

我々にとって「当り前で平和な毎日」を一生保ち続けるほど難しいことはない。

災害だけでなく、いつ襲ってくるかわからない「病気」「事故」「事件」「家庭内不和」「対人関係不和」「失業」など、私たちの日常は、いつも平和であるとは限らない。

ならば、当り前の日常に心から感謝することが何より大切だ。当り前の日常を、しっかりと守ることが一番幸せなのだ。

こうして、2011年8月9日、石巻被災地の視察を終えた彼らは様々な決意と思いを胸に仙台市に向かい、石巻の子どもたちを迎える交流会の準備に取り掛かかったのである。

◆次回も引き続き、SEIKI交流隊のお話です。
 


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