2012.10.01  

   第67話:絆 −従業員研修旅行・被災地へ− その4

 第66話でお話しさせていただいたガレキの中で見つけた娘の卒業証書。

 弊社の広告掲載にも協力していただいた松川さんご夫妻の話は、私たち教育に携わる人間に「真の希望」とは何かを教えてくれるものだった。

 もはやガレキはガレキではなく、時に宝物として、そして希望のかけらとして私たちに様々なことを問いかけているのである。

 ガレキの中から生まれる「気づき」、そこには私が成基交流隊の子どもたちと訪れた昨年の夏にもひとつの出会いがあった。

 お話を聞かせてくださったのは「木の屋石巻水産」副社長の木村隆之さんだ。

 木村さんの工場は、津波により建物が全壊。

 工場に保存されていた缶詰も100万缶が流されたり、ガレキに埋もれた。その後、木村さんは埋もれた缶詰を拾い出す回収作業を社員と延べ1300人のボランティアとともに開始した。

 簡単に回収作業と一言で言うが、大津波襲来の後、どこにいったのか、またどこにどれだけ埋もれているのかわからない缶詰を探し、拾い続けるという作業がどれほどのものか想像してみてほしい、当然回収できたところで、それが売り物になるとは木村さん自身はなから思ってはいない。

 それでも毎日探し、毎日拾い続ける。その繰り返しをボランティア、そして社員たちと続けた。結果40万缶を回収する事ができ、食糧不足だった被災地で多くの人の胃袋を満たし、命(未来への希望)を繋いでくれたのである。

 木村さんは、今回の研修旅行にも貴重な時間を割いて、当時の様々な話を社員たちの前でしてくださった。

 同じくこの日、お話を聞かせてくださったのが「木の屋石巻水産」の社員で、自らも被災者である中村さんだ。

 中村さんは当時の様子をこのように語っている。

「震災から1年以上が過ぎ、たくさんの支援、そしてボランティアの方々のおかげで、私たちはここまでがんばることができました。

 震災当時、私の家族は全員無事でした。しかし、娘たちは避難した学校の4階から自分の生まれ育った街が波にのまれ、破壊していく姿を見ていた。人々のうめき声、泣き声が聞こえたと言います。それを聞いた私たち夫婦は、震災直後、娘たちのPTSDを心配していました。しかし、ふと気づきました。

 そんなことは考えていても仕方がない・・・。未来のことはわからない。自分たちが頑張って働いている姿を娘たちに見せよう!それが唯一親として今できることだという結論に至ったのです。仕事への不安もありました。壊滅的な被害を受けた会社でしたが、社長も副社長も社員を誰も解雇しなかった。ありがたいことに仕事があった。

 私たちには、流された缶詰を掘り見つけだすという仕事があったのです。毎日缶詰をガレキの中から堀り、洗う。今、みなさんの目の前にある缶詰がそれです。そして義援金をくださった方々に、感謝の気持ちを込めてその缶詰を差し上げたのです」

 その缶詰が希望となり、会社の復興を助けたのである。

 まさに「命の缶詰」「希望の缶詰」だった。

 中村さんが話す中、ラベルの剥がれた、ときどき少し凸凹さえ見える裸の缶詰に社員たちは目をやった。

 ガレキの中から見つけられた缶詰がすでに社員ひとりひとりの手に渡されていた。

 社員たちはどんな思いで、缶詰を受け取り、中村さんの話を聞いていたのだろう。

 中村さんは最後に、震災後、娘である早希さんが書いた感想文をみなの前で少々涙声になりながら読み上げてくれた。

 昨年の文部科学省作文部門で総理大臣賞に輝いた次女の作文である。

 「私がこれ以上話をするより、娘が書いた作文をみなさんに聞いてもらう方が、当時の子どもたちの気持ちが素直に表れていていいかと思います。当時、小学校6年生だった娘の作文です」

 と言うと中村さんは、早希さんの作文を読み上げた。

 「ありがたいねえ」

 宮城県湧谷町立湧谷第一小学校
 6年生 中村早希

 三日目、凍りつきそうになる両足をカタカタ震わせながら考えた。
 そうだ。あの日も私はご飯を残していたんだ。
 しかも、私たちの学年の残飯量は、毎日、目立っていた。
 あちらこちらから、せきをする声が聞こえ、避難所として用意された教室に響いた。
 そして、小さい子が泣き出す。
 「おなかへったよお」
 その子たちのお母さんが、ふたりをだっこして、教室を出ていく。
 「すみません」
 小さな声だった。私は心の中で返事をする。
 「だれも迷惑なんて思っていませんよ」

 丸二日、食べ物を口にしていない。
 突然、恥ずかしいという思いが押し寄せてきた。
 自分の意志で、食べ物をそまつにしてきたことに対する恥ずかしさ。
 「え、本当に。やったあ、やったあ」
 「もらえるんだって、おにぎり」
 うわあ、三日ぶりのごはんだ。

 配給されたおにぎりを両手を器にして、半分腰を曲げて受け取った。いや、頂いた。
 でも、あれほど待ち望んだおにぎりなのに、食べるのがもったいないように感じられた。

 友達と、こんな会話をしながら、寒さや恐怖とたたかっていたのだ。
 「食べ物が食べられるようになったら最初に何食べたい」
 私たちの答えは3人とも、おにぎりだった。

 この時、私たちの耳に入ってきた言葉、
 「ありがたいねえ」

 近くで窓の外をじいっと見つめながらおにぎりを食べていたおばあさんの言葉だった。
 この言葉によって手の中のおにぎりが、よりいっそう輝いて見えた。
 感謝の心が、つやつやと光っている。

 友達と顔を見合わせ、どちらともなく、口にした言葉。
 「食べるよ、食べるよ、せえのっ」
 口にしたおにぎりの味は、たぶん、一生忘れないと思う。
 「一つ夢、かなったっちゃあ、私達」
 お米の味をかみしめながら、自衛隊の人に手を合わせ、何度も「ありがとう」を繰り返した。

 今、思う。あの日のおにぎり、あれは希望だった。
 あのおにぎりがあって、私がいる。おなかがへった、と泣いていた二人の命がある。
 寒さとたたかっていたお年寄りの方々の命がある。
 あれは1200の尊い命を救った、まさに命のおにぎりだったと思う。
 多くの手と、その思いが実らせるお米だからこそ、私たちに希望を与えてくれ、明日を感じさせてくれたのだと思う。

 支え、支えられるための力を生み出してくれたお米に感謝したい。
 「ありがたいねえ」
 
 作文を読み上げた中村さんは、そんな愛娘の思いを自分自身とも重ね合わせていたのだろう。

 「何気ない日常。朝、家を出て、会社に行き、仕事を終えて帰り、家族みんなで夕食を食べる。そんな日常はあの震災の時はたまらなく愛しかったです。しかし、そんな非日常の中にありながら、缶詰を掘り起こす仕事があって、本当にありがたい、ありがたいと思いました」

 中村さんはそう言って照れくさそうに頭を下げた。

 「ありがたいねえ」

 娘、早希さんの言葉を思いながら、私は目の前にあるラベルの剥がれた「命・希望の缶詰」を手に取った。

 「木の屋石巻水産の缶詰」と言い「松川さんの卒業証書」と言い、ガレキの中から再び光を浴びた宝物たちは、その光を彼らだけではなく、我々をも含む関わったすべての人々の心に「希望の火」を灯したのである。

◆ 次回も引き続き研修旅行のお話です


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