2006/11/27
2006.12.4修正
2008.7.14
第3話 いじめと自殺問題を考える
読者の皆さん、大変お待たせしました。すみません。
しばらくぶりの投稿です。
父と長男を無くしたのが1978年1月だから、もう28年も経つのに、前回のブログにそのことを書いてみて、全く子どもの死を乗り越えていないのではないかという思いさえしています。悲しむときに我慢しないでしっかり悲しむことの大切さを改めて確認しています。死んだ子の歳を数えるといいますが、本当ですね。
3話を書く気持ちにならずに悶々としていました。
そんな私ですから、子どもが自殺したというニュースを、複雑な思いで聞いています。
いじめ問題を考える
またまた、「いじめで自殺か?」という報道が飛び込んできました。小学生徒や中学生が、自ら命を絶つということが起こっています。
私が学生時代には、児童心理学の講義で、子どもは自殺をしないと習ったような気がします。それがこのような現状になっているとはどういうことでしょう。
子が親より先に亡くなって、親が子どもの法事をすることを「逆縁」といいますが、事故や病気で子どもを失っても、親や家族の悲しみは大きいものです。
まして、わが子が自ら命を絶つなんて、考えることも出来ないほど親としては深いショックでしょう。
報道されているように、自殺の「きっかけ」が、もしかしたら友達関係にあるのかもしれません。
でも、自分が死んだとき嘆き悲しむ親や家族の顔が浮かんでいたら・・・
自分が亡くなったときに、半狂乱になって泣き崩れる、愛してくれている人の顔がもし浮かんでいたら・・・
自殺以外の解決策があることを知っていたら・・・・
自殺したあとの恐ろしさを知っていたら・・・・
命の重さを実感していたら・・・・
いじめの苦しみや悩みを受けとめる温かい人間関係がどこかにあったら・・・・
そして私がいま広めているTFT(思考場療法)のような、悲しみや苦しみや恨みやパニックが軽減する方法を知っていたら・・・・
たとえいじめられていても、死ぬことはなかったでしょう。
そう思うと残念です。
自殺は本人が選んでいる
ここで自殺のことに触れておきましょう。
私のところに相談に来る方の中にも、「死にたい」と訴える方があります。
さすがに死を考えている人は、思いつめた顔をしています。
何もかも面倒になったという感じです。肩を丸めて目線を落として下を向き、ボソボソと話します。
「先生、失恋したから自殺します・・・ いつ死ぬかも決めています・・・」
「死ぬほどつらいんですね」
「そうです・・・ もう死んだ方がいいんです・・・」
「死にたいのはなぜですか?」
「大好きな人が他の人と結婚するんです・・・」
「失恋したから死にたいんですか」
「そうです・・・」
「もし失恋してなかったらどうですか?」
「失恋しなかったら死ぬなんて思いません・・・」
「死ぬ理由は?」
「結婚できないからです・・・」
「死ぬと決めたのは誰ですか?」
「私です・・・」
「自分で死ぬことを選ぼうとしているんですね。死んだらどうなると思いますか?」
「死んだら無になります・・・」
「エッ!死んだら無になるんですか?」
「違うんですか?」
「さあどうなんでしょう。無ならいいですが無でなかったら大変ですね」
「無になるんじゃないんですか・・・ そうですか・・・」
「どうなんでしょうね。死んでいまの悩みが消えるのならいいですよね。もし消えなかったり、もっと苦しかったらどうしますか」
「先生、無にならないんですか?」
「さあ・・・・・」
こんな調子でそのときはセッションが続いたのですが、ここで大切なのは、死ぬことを「自分が選んでいる」ということです。
この方は、「死にたいのは失恋したからで、失恋しなかったら死ぬなんて考えなかった」と思っているわけです。「失恋が原因」だと思っているのです。
ここでよく考えていただきたいのですが、死にたい本当の原因は失恋したからでしょうか?
読者の皆さんも一度や二度は大失恋をした経験があるでしょう。初恋をいま思い出して、胸がキュンとする方もあるでしょう。私も大学時代に失恋した夜に、「馬鹿野郎!」と叫びながら飲めない酒を無理して飲んで友人に介抱してもらったことを思い出しました。
失恋したのが死にたい原因なら、あなたも私も、この世の中のほとんどの人が生きてはいません。失恋したという現実が起こったとき、それをどう捉え、自分が何を選択するかが重要なのです。
失恋したとき、「悲しいけどいい人生経験だった」「結婚してから分かれるよりはいま別れて、傷が少なくてよかったのかもしれない」「もっといい人がいるから私を幸せにするために神様が別れさせたんだ」「悲しみを知る人は優しくなる。これで私も優しい人になれるかもしれない」「よしもっといい人を探そう」「もっとステキな出会いをするぞ!」などと考えていく人は、失恋から立ち直ります。
彼らだけでなく世間の多くの人が、「失恋」「仕事や事業の失敗」「失業」「病気」などが死にたい「原因」だと考えています。そのことがその人にとって死にたいくらいに大変辛いということはよく分かります。しかし、そのことと自殺することとは別ということを、私達は知っておかねばなりません。
事業に失敗して倒産した方もあるかもしれません。でも倒産したことと自殺するかどうかは別のことなのです。頑張ってやり直すことを選べるし、他の仕事をすることも選べます。
私の知っている人も、倒産したけれど人生をやり直すことを選択しています。倒産しても自殺しない人がほとんどなのです。
いじめの問題も同じです。いじめられたからといって自殺を選択する必要はありません。いじめが自殺の「きっかけ」になったかも知れませんが、死ぬことは本人が選んだのです。
いじめと自殺を分けて考えないと、いじめが自殺の理由だと勘違いして、いじめを言い訳にして自殺をする人が増えるでしょうし、根本的な解決にはなりません。
いじめは決して許されるものではありません。 しかし、いじめと、いじめを理由にして自殺することとは別のものと私は考えています。
死を選択した子どもの苦しさは想像して余りありますが、これ以上死を選ぶ子が出ないように、いじめと自殺は別のものとして取り扱うことを提案します。
私には苦い経験があります。
初めて担任した教え子が、1人は高校生になって、もう1人は成人してから自ら命を絶ちました。
新任当時は「命」についての教育をしていなかったという悔いと反省が今でもあります。
「死なない教育」
「命を大切にする教育」は教育の原点だと思っています。命のことや、いじめの対策と解決法については、拙著「いじめられなくなる本」1995年(たちばな出版)にも書きました。
いじめは、子どもに任せておいては解決しません。必ず親と教師が本気で指導することが必要です。しかも当事者だけの指導では解決しません。学級(学校)全体の指導が必要です。いじめについての相談があれば、遠慮なく連絡ください。
「意味があって生まれてきている。いじめなんかで死ぬな!」と大声で叫びたい気持ちでこれを書いています。 (続く)