2006/10/02  

第2話 「家具デザイナーとしての第一歩」

デザイン

自らの名と責任において。

創造物に対し責任を持ち絶えず自身の会心の作を目指す。

 

強く思う

デザインにおいて重要なことは、強く思う発起する心が大切です。

どのようなテーマ(主旨)をもらおうと、テーマを自身の内発により発起することです。全ての直面することに対して、自身の視座のもと何をするかです。当然自身の創意工夫に基づく表現です。

私の時代の意識

私がデザイナーになった時代は、まだデザインというより設計・開発・図案・意匠といわれた時代でした。

 

従ってスタートは現場と図面書き(図面書きはまだ良い方だと言われましたが)すなわち設計と生産の関係で生産を重視する傾向にあり、生産現場を体で覚えろという意図があったようです。しかし、実際にはそう考える人達の中には、シゴキという行為をする人がいました。シゴキをしている人は生の教育、いわゆる現場を教えてやるという立場で一つの修業としての行為でした。

 

当然嫌気がさします。

私は幸運にも会社の社長に直接ヤスリのかけ方を真剣に自社の将来を担う若者に技術の習得という思いで教えていただいたヤスリのかけ方は、シゴキの中で教わったかけ方と全く同じでした。

この時、世の中の仕組がうっすらと見えた気がしました。

そして、この経験が後に新しいデザインの源泉になりました。

真剣な人達

図面書きの中でも同じようなことがありました。T氏という先輩から「そんな図面では世の中で通用しない。」といつも修正されました。

そして、個人レッスンを受けるようになりました。会社で通用する図面ではなく、世の中に通用する図面を書く事で、会社に貢献する事と教わりました。

一念発起して、製図学校へ一年通いました。

3ヵ月後、人間工学の資料をいただき、これからは生産ではなく、すわり心地の良いデザインが必要だという意図が理解できました。

自分のデザインのベースに千葉工業大学・小原二郎氏の人間工学が重要な役割を果たすようになりました。このような環境の中で、自らの責任を持って仕事をしている人達が様々な形で、維持継承していたのです。その時、明確に意識したわけではありませんが、ずっと私の「何か」となって頭の中にこびりついていたのだと思います。

世界一をめざして

新しい会社で、O氏という上司にめぐりあいました。

よく叱られました。

しかしいつも目の奥が優しく、見守ってくれたと思います。そして、Y氏という上司はいつも私の個性を尊重していただきました。

しかし、設計を統括しているK課長と衝突しました。

「折りたたみ椅子を設計したら私が世界一だ!こんな小僧に負けるわけがない。」と会議の席でいわれました。今思えば会議の席ですから五分の喧嘩を売ってくれたわけです。そしてその喧嘩の主旨が世界一というレベルの喧嘩でした。

その後、「お前なんかいらない、ヤメロ!」という言葉が私を本気の世界へ送り出してくれたと思います。

サイン

ピエール・ポーランというデザイナーと話しをする機会がありました。相手はフランス人通訳付きでしたが、自分が最も素直に聞けた反対意見でした。その時、デザイナーの本質、あるいは資質について何か掴んだような気がしました。

「それは君の意見だ。私の意見を理解して欲しい。その椅子には私のサインが明記されているのだから」

そして、O氏に言われた「アンタの剣はキレるのは分かったから、ちょっとサヤにしまいなさい。良い事でも全部敵に廻してしまう」O氏の目が優しかった、素直に聞けました。

 

出会い

このような中で、日本を代表する家具デザイナー、ハンスウェグナーの弟子であり、モダンジャパンの旗手の水之江忠臣氏と出会いました。

「東京へおいで」という一言で東京へ上京することになりました。水之江さんから「本当は、私のそばに置きたいのだが、色々あってそうもいかないので原好輝氏(当時、日本の若手家具デザイナーのホープでした。)が今デザインをしている会社を紹介するよ。」ということになり、私の頭は真っ白になりましたが、しばらくして私の返事は「世界一の椅子がデザインできるならどこでもいいです。」というものでした。

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