2006/11/06    

第5話 フリーのデザイナーとして生きるインスピレーション

把握:

 しっかりと理解する、よく見、よく聞き、よく考え、様々な資料に目を通し、時代を見る。

 

時代が動く:

 仕事の流れが鈍くなった。何か変だ、何かの兆候か?日本のデザイナーがあっという間に海外の商品が、日本の市場(売り場)を席巻した。全ての売り場に海外ブランドが溢れた。まるで「JAPAN MODERN」をあざ笑うかのように、「継ぎが遅すぎた」と直感した。ヨーロッパに負ける。

 この受け方ではない、この形ではない、私と先駆者のデザインの間がヨーロッパデザインに埋められた。時間がない製造の悲劇、たくさんの仕事があった。作ることにかまけていた。市場が見えなくなっていた。

 市庁舎・病院・銀行・学校・ホテル・ショップ、様々な椅子のデザインをしていた。社会のシステムの変化に対応すべくデザインしているうちに市場(売り場)が見えなくなっていた。

 メッセージを出すべきデザイナーが受けた仕事の中で悦に入っていた。

 

「遅い。間に合わない」:

 自分のうぬぼれで「シミ」のような存在をJAPAN MODERNの継承などといっているうちに世界の椅子にとりかこまれていた。製造即売り上げというシステムを作りあげた故の安心感だった。(コントラクト ファニチュア)契約販売の落とし穴だった。

 

折れた矢:

 販売者は扱い商品をチェンジすれば良いが製造者はそうはいかない。場の提供者と商品の供給者とでは条件が違いすぎる。デザインも販売側の欲・要求を聞くことを余儀なくされる。このことで、会社と対立した。「デザインの命」は曲げられなかった。そして、2年後すべての仕事を終えて、この会社を辞めた。結婚して2年目、親となって間もなくの30才の時だった。

 

フリーランス:

 フリーランスデザイナーとして活動しだした。椅子のメーカーと契約した。

デザイン画を持ち込む、返事がこない。デザインの欠点をつかれる。しかし、それはメーカーの都合であって、椅子のデザインについてのものとは考えられなかった。商品化に結びつかない、どうしていいか分からなかった。何を欲しているのか、何が本当にいけないのか、1年がたった。何がしたいかではなく、何かをしなければという漠然としたものだった。私はメーカーの社長に尋ねた。

 

 「画期的なことを望んでいるのですか?」

 「それは製造上のことですか?」

 初めて相手が具体的に話し出した。

 「今の設備でできるものが欲しい」

 私は「でも、デザインに対して反応がないじゃないですか。」と社長に問いかけた。

 「最終決定権は社長にないのですか?」

 しかし、社長は「会長が・・・・・」と言ったきり言葉がなかった。契約を1年で終えた。甘かった。皆が同じ土俵にいると思った。だが、こういうメーカーが日本の有力なメーカーなのだと知った。

 

内から見る、外から見る。:

 同じメーカーでも母体が違うと全く異なることを思い知らされた。

 

再会:

 何のきっかけかT氏に再会することになった。

 「どうだ、うまくいってるか?」

 「まあまあです。」

 「その程度の考えでプラプラしているとろくな人間にならない。いつでもいいからまた遊びに来い」と言われた。

 T氏は私が東京に来た時に最初に出会った百貨店マンで大変きびしい人でした。数多くの仕事を共にしました。徹底的に分析し、観察し、考え抜く人でした。どうしてこの人はこんな一所懸命継続的に仕事に取り組めるのか、どうしてそんなに自信を持って言い切るのか、人間として初めて遭遇した人でした。

                            続く

志あるリー ダーのための「寺子屋」塾トップページへ