2009.02.09  

第13話 言葉とは神秘だ!

私たちは肉体をまとっているがゆえに、物質的にも時間的にも有限な世界に住んでいる。

今日は、人生で「分かる」ということに関して話したい。

本を読んで勉強して、言葉(論理や式や図も含む)で明確にすると分かったと思う人達がいる。 知識を使って人生を効率的に生きようと試みる人たちだ。

しかし言葉で手に入れるものは、本質の断片にすぎない。全体ではない。

あなたは自分自身を言葉で説明できるだろうか。

「優しい」とか「愛がある」とか言うかもしれない。
あるいは肉体的特徴をあげ、背が高いとか、足が長いというかもしれない。

でもそれは、あなたのほんの一部を指し示すだけであって、全体ではない。

言葉にできるのは、ほんの一部なのだ。
いや言葉によって、あなたという本質の一部が指し示されるにすぎない。

言葉で明確にして分かったと思う人は、それ以上探究することはできない。
その人に触れることが大切なのだ。その人と関わることで、あなたに体験ができあがる。 何がうれしいのか、何が辛いのか、何に感動するのか、それを味わうことで、なにかしらの言葉が出てくる。

一方、人に“ついて”考えることは、人と自分を分離していることになる。
人を感じることは、人と自分が一体となることを意味している。

感じることで、相手と自分の垣根を取り払うことができる。

言葉で人を明確に描写することは、その人に触れて感じることではない。

言葉で明確にすればするほど、本質は遠のいていく。

その言葉が本来指し示していた「命」(いのち)を失うことになる。
明確にすることと真実は違うのだ。 私たちの多くは、分かるということをゴールとしている。だから本質を、命を逃している。

「でも時間が有限だから、なるべく効率よくしようとしているのだ!」
と、あなたは言うかもしれない。
 
 言葉は、相手の魂に触れるための橋渡しであり、本質そのものではない。
 言葉は、相手の本質や真善美に触れるための道具なのだ。

論理や概念や言葉で表現できないものの中に、入り込み、触れることが必要なのだ。 それが感じることであり、体験なのだ。

このようなことを書くと精神世界系の人たちは喜ぶだろう。

だが、この真理にも「魔」が入り込む余地がある。

言葉で本質を顕わす努力をしなくなるからだ。

言葉には魂を乗せることができる。それが言霊だ。本質は言葉や論理では記述できなくても、 その本質を、その霊性を言葉に乗せることができる。

それには多くの人に触れ、悲しみや、喜びや、やさしさを感じることで、その相手が発する言葉が指し示す霊性に触れることができる。言葉に込められた霊性に触れた人だけが、言葉に霊性を乗せることができる。

もし、相手との言霊のやりとり方法を掴むことができれば、言葉は神秘となる。「命」を生み始める。そして、そのやりとりを通じて、相手の本質、命を自分の本質や命の体験として置くことが、初めて可能になる。

命が私たちの言葉を生きている。それが私たちの魂に響くのだ。

                              出口光