2006/11/06
2008.07.28 

第5話: 「カタナ」の時代から「ツルギ」の時代へ

「カタナ」とは利己的な殺人の武器であり、「ツルギ」は利他的な活人の神器であります。また、カタナは殺人の訓練を積み、ツルギは人を活かす稽古を行います。

 

訓練と稽古という意味の違いは、私たちの世界では夜と昼ほどの違いがあります。

 

訓練は、指導者の言うことに聞き従い、それに自分に合った新しい工夫を加えて技術を高めることです。

 

一方、稽古は、簡単に言えば「いにしえ(古)」を思い考えることです。先人たちがどのような思いで技を形作ったのか、どういう動きをしていたのかなどを考え、何より技に工夫を加えず、出きるだけ忠実に昔の姿を再現することです。

 

思い起こせば、若い日の私は「カタナ」と言う殺人の術を得る訓練に一生懸命になっていました。

 

では、このカタナの時代の話を始めます。やっと三話の続きになりますが、1974年、私が内弟子に入った頃のことです。この内弟子入りは、本格的に「カタナ」と言う殺人刀に磨きをかける時代と言えます。

 

ここで一つお断りを申し上げます。

今後の回想録の中で「稽古」と言う言葉が多用されますが、いま思い返すと、訓練そのものにも関わらず、当時はその意味を深く考えずに使っていました。その点を了承いただいてお読みいただきますようお願いいたします。

 

・・・当時、人気雑誌「少年マガジン」などマスコミの影響もあってか、ケンカ十段の異名をもつ芦原英幸を慕って全国から四国の片田舎に内弟子志願者が沢山集まりました。私も1973年の春、カバン一つぶら下げて愛媛県の八幡浜市にある先生の道場にまいりました。17歳でした。

 

内弟子入りに際しては特に決まりごとは無く、門戸は広く開けられていましたので内弟子入りは自由でした。ただ、弟子として残る確立が100分の一にも満たないのです。それほど厳しい世界だったのです。

 

私が内弟子入りした際は、私の方に特別な事情があって、初日に地獄のような試練が待ち構えていました。その事情と言うのはこうです。

 

私は芦原先生の元に来るまでは東京の大山倍達館長と梶原一騎先生のお世話になっていました。16、17歳の若輩ながら、私も館長の期待に答えようと関西で極真会館の同好会を結成したり、私なりに必死で極真空手の普及に尽力していました。

 

当然、目立つ行動であったので自然に頭角を現し、少しばかり素質もあったせいか、高校卒業後は、前田は東京の極真会館の本部道場に来るものとばかり思っておられたようでした。

 

それなのに、その気持ちも察せず、期待を裏切って四国の芦原先生の所に行ったので、大山、梶原両先生はカンカンに怒りだしたのです。私は若かったせいで常識にも疎く、もちろんそんな事情など理解していませんでしたが、芦原先生は黙って私を身請けしてくださったのです。

 

その際に、「前田と言う男は、この俺が引き受けるだけの価値がある男なのかどうか」という事で、先生は私を試されたのでした。当然だと思います。あの大山館長や梶原先生と言う大物から擁護しなければならないのですから、芦原先生もよほどの覚悟がいったと思います。今思えば申し訳ないことでした。

 

それは内弟子に入った初日の稽古の時でした。先生が「前田・・・」と静かに私を呼びます。そして「遠慮なくかかってこい」と言われ構えられたのです。先生との組手が始まったのです。組手と言うのは、いわゆる試合のことで、私たちの世界では、組手は真剣勝負を意味します。

 

誰もが先生の側に行くことさえ怖く、また恐れ多いのに、その先生の正面に立って殴り合いが始まるのですから、私は気が動転し生きた心地がしませんでした。

 

あの伝説の達人、ケンカ空手十段と言われる芦原英幸を相手に、この17歳の青二才に一体何が出来るというのでしょう。

それでも「組手が始まったら、先生も先輩も弟子もない。たとえ親子兄弟でも容赦なく倒せ」と当時の極真会館で教えられていましたので私も腹をくくりました。

 

二人は向かい合って構えています。この時点ではまったく対等なのですが、私はまったく蛇に睨まれたカエルのようです。なす術もなく突っ立ていると「どうした、かかって来い!」と先生から激が飛びました。

 

「押忍!」と答え、私はとにかく攻撃を仕掛けました。

私の仕掛けた蹴りを、先生はどういう風に受けたのか、とにかく蹴った瞬間にひっくり返されました。私もすぐ起き上がって、次は力いっぱい突きました。しかし、またその瞬間、ひっくり返されました。まったく何をしても立っていられないのです。

 

合気道のように、ただひっくり返されるだけならまだしも、ひっくり返される時に先生のカウンターの突きや蹴りをもらってから倒されるのですから、そのダメージは相当なものです。

 

いつしか気を失って倒れていると、先生が「何やってるんだよ前田!寝るのはまだ早いよ」と怒鳴る声が上から聞えてきます。

 

それで、また立ち上がって向かっていくのですが、何かした瞬間に跳ね飛ばされしまうのです。私は、鉄の壁に向かって針を刺そうとする蚊のようなものです。

 

私の顔も体も、先生にとっては、まるで天上からぶらりと吊り下げられたサンドバッグです。先生の繰り出す突きや蹴りがすべて叩き込まれ、瞬く間に私をぼろぼろの雑巾のようにしていきました。

 

ブロックやレンガや自然石を一撃で砕く先生の手足です。もちろん手加減はされていますが、その手足で叩かれるのは痛いのを通り越して、何とも形容の出来ない鈍痛でした。普通なら一人あたり3分ほどで済む組手ですが、私の場合それが一時間近くも続いたのです。意識が薄れ、先生の姿が陽炎のように見え「もうだめだ。俺は死ぬ・・・」と諦めかけた時でした。

 

どこにそんな力が残っていたのか、私は最後の気力を振り絞って高い回し蹴りを放ちました。なんと、こともあろうに、それが先生の顔面にヒットしたのです。本当に最後に残っていた力を全部振り絞っての一発でした。

 

しかし、力のない蹴りに威力はなく、先生は倒れもせず立っています。「さあ、これで先生の反撃が来る・・・いよいよ俺は死ぬんだ」と今度こそ本当に覚悟を決めました。

 

その時です。先生から予想外の言葉が返ってきたのです。

 

「よし、よくやった前田、合格だ!」と言い、続けて「みんな見たか?今の前田の蹴り。俺の顔に当てたんだよ。驚いた、俺の顔に触ったのはこいつが始めてだよ」と満面の笑みを浮かべて言われるのです。子供のように、本当に嬉しそうに、本当に無邪気に言うのです。

 

これが私の内弟子の入学試験であり、目出度く実力日本一の極真会館芦原道場への入学が許された瞬間でした。

虎の穴へようこそ・・・と不気味に笑う先輩たちでしたが、ひとまず嬉しさで涙が出ました。

 

そんなことで、この入学式はいまでも忘れません。いえ、一生忘れない体験です。肉体的にあれだけ打ちのめされたのは後にも先にも芦原先生との組手が最初で最後ですから。本当によい経験をさせていただきました。

 

あの時のことを思うと、その後に体験する大抵のことは辛抱できました。世の中の怖いと言われることでも、あの先生との組手ほど怖いという経験はまだありません。ヤクザでさえ青二才の坊ちゃんに見えたぐらいです。

 

辛かったですけど、いまは度胸と根性を植えつけてくださったことにとても感謝しています。

 

続く・・・

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