2007/04/30
2008.09.22

13話 「道場と稽古、そして剱」

稽古は、もちろんやる気があればどこででも出来ます。しかし大なる目的を果たし、ちゃんと成果を得るためには、やはり稽古に集中できる環境が必要です。

 その土地の磁場や因縁などを考慮し、総合的にまとまった良いエネルギーの発する場所を選ぶことが大切です。弘法大師など、古来の聖人たちは全国を歩き、霊的に強力な磁場を見つけ出し、そこに人を育てる道場とも言うべき神社や寺院を建立してきました。

 

人材育成を行うには、教授陣の質の高さも大事ですが、同時に環境も見過ごすことは出来ません。

では、どうやってそういう場所を見つけるのでしょう。それは残念ながら誰でも容易に出来る技ではなく、稽古鍛錬を通して身につけた「場を読む感」と、古からの慣わしによる「祭り」のノウハウを身に着けることによるしかないと思います。


 聖地、霊場と言われる所は、ただそこに居るだけで癒され、神仏を感じ、そして生きる力が湧き立って素晴らしい未来を確信できます。

 彼ら選まれた能力者たちは、神の支持のまにまに、そんな場所を探り当て神業を展開していったのでしょう。そこはまぎれもない地球の核から噴出すパワースポットです。和良久の生まれた京都府亀岡市の大本もそういったパワースポットの一つです。

 

昔、わが師奥山忠男が、こんなことをよく言っていました。「ここ(大本)に居れば何にも必要ない。人も物も必要なものはみんなそろっている。すべてここへ集まってくるんだ。ここは本当に不思議なところだ」

 

師は本当にどこにも行かず、大本に篭りっきりで研究を続けていました。稽古に必要な環境はもとより、理念と技を整理するための資料や文献はすべて揃っていたからでした。どこにも探しに行く必要はまったくなかったのです。

 また、その理念を裏付けるため実際に稽古する人たちも集まってきました(私もその中の一人でした)。

 どこかに行って、だれかに教えを乞うということをしなくても、真剣に祈り、行動を起こせば神様が必要なものすべてを取り揃えてくれます。

 これは私も本当にそうだと思います。和良久においても、どこかに出かけて、誰かの力を借りることなく、大本の道場の中だけでまとめることが出来ました。

 何も足さない、何も引かない・・・とは、あるウイスキーの宣伝文句ですが、私は、そんなことが現実にあることを体験いたしました。

 

磁場の良いところ、気持ちの集中しやすいところ。またエネルギーに引かれて人が集まる因縁あるところ。そんなエネルギーをいっぱい吸収して素晴らしい技が生れてくるような場所・・・道場とは、こういった感じの所ではないかと思います。

 こんな場所を探し当て、そこで祈って技を練ると、本当に何倍も効果が違うのです。
 

もし、そんな場所に行くことが困難な場合は、道場とすべき場所を聖地のような神気で満たすことです。修祓して清め、正神に降臨願ってその場を聖地に変えるのです。

 さて、そんな聖地、つまり道場が決まったら、いよいよそこで稽古に入ります。

 

稽古では、必ず最初に祈りをささげます。稽古に入る前に「祈る」ということは「これから、あなた様がおわしますこの聖地を使わせていただき技の練磨をさせていただきます」と言う挨拶とお許しを乞い、その上で大いなる神様のご守護をお願いすることです。それによって、普段の自己の能力を超えた大きな力を開花させることが出来ます。

 

また稽古後は、必ず感謝の祈りも忘れずに行います。それを行うことによって、確かな技の進展が約束され、効果の著しいことを体験されることは間違いありません。
 

このように本来の稽古事は「ジム」や「体育館」では行うことは出来ません。「道場」でなければならないのです。

 

同じ体を鍛えるにしても、体育館と道場では、その場のもつエネルギーが根本的に違うのです。体育館は人の気の集まるところです。道場は神の気の集まるところです。

 

体育館は、霊場でなくても差し支えありませんが、道場は神霊の気の満ちる場でなくてはなりません。(そうでなければ、先に申し上げたように、そのような雰囲気にすることです)

 

スポーツを行う体育館は人の集うところで、道場は神の集うところです。ですから、道場に神様は祀られ、練習と言わず稽古と言い、最初と最後は、挨拶ではなく神前礼拝を行います。

 

しかし、現実の話、なかなかこういった本格的な道場というところで稽古が出来るのは難しいものです。町の集会所や、公的機関の部屋や体育館などを借りて稽古をするのが実情なのではないでしょうか。

 

止む無く、こういったところで稽古を行うときは、指導者は「祓い清める方法」を覚え、しっかり人と場を清め鎮めてから稽古を行うべきです。それにより、参加者の怪我の防止と魂の向上が得られるのではないかと思います。

 

道場における稽古は、鍛錬ではなく神と人とを結ぶ「祭事(まつりごと)」です。そして、稽古とは神前の祭典のように神聖で厳かなものです。

 

稽古を行うに、まず場内を清掃して清め、稽古をするものはお揃いの稽古着に袴を着用し、足袋を履いて身支度を整えます。

 

道場に入るに際しては、口をすすぎ、手を洗って身を清めます。そして、道場に入ったなら稽古の開始に際して正座瞑目をして心を鎮めて礼拝の時を待ちます。斎主、つまり指導者が入ってきたら、その指導者の先達で神前に礼拝、拍手し祓いの祝詞を奏上します。(指導者は、怪我やアクシデントなどに遭遇しないこと、稽古によって参加の者たちが向上できることなどを一心に願います)

 

礼拝後は、指導者の指示に従って稽古を開始します。その稽古の流れは、言霊の美しい響きの中で、言霊の法則に合った動きを全員で行います。

 

さて、そのような道場で行う稽古とはどのようなものでしょう?

それは『ご神前で行っても恥ずかしくない稽古とは』というのがキーワードになると思います。

 

そうしましたら、決して奇声を発したり、勝負にこだわったり、まして流血に至るような殺伐としたものではないと思います。これでスポーツや格闘技などではないのは確かです。

また、そこでなされるのは稽古であって、練習やエクササイズなどではないということ。

それは継承すべき日本伝統に基づいたものであって、それも日本で最も古いもの。それが宇宙の真理に適うものであることが大事なのではないかと思います。

 

稽古とは「いにしえを思う」ことです。いにしえより続く最も古くて伝統があり、しかも国を動かすほどの智恵と力を与えるものとは?

 

そして人の生活に深く密着し、使いようによっては創造をも破壊をももたらすような物凄い威力を有するもの。また善用すればこの上なく人を健康に幸福にしていくもの。

 

それは何でありましょう。私はそれこそ武道ではないかと思います。

 

武道といってもどのような武道なのか?と言われる方がいますが、確かに武道といいましても現代はいろんな武道と名のつくものがありますが、武道のルーツは三種の神器である「剱(ツルギ)」です。この剱を行ずることを稽古と言います。


 剱は、簡単に言えば「霊から体への変換器」です。

「見えないものを見えるようにする装置」とでも言いましょうか。

 剱は神の力の顕現したものです。たとえば映画「スターウォーズ」のフォースによって現れるあの剱に似ています。

 

ツルギは、気の力を具体的な力に変えるときに必要な道具で、エネルギー変換器みたいなものです。霊的な力を現実的な力として現すもので、すべての現象を司る大事なものです。

 

ツルギは、本来、皆様が想像されるような、あの鉄や銅で出来た刀剣類なのではありません。実は、ツルギと言う言霊の意味は「釣り合わせる儀」と言うことなのです。神と人とを祀り合わせ、人と人とを祀り合わせる力を言います。

 

ツルギは物を切ったり、人を殺めたりする道具のように思っておられる方がほとんどでしょう。それは違います。それを行うのは刀です。刀と剱とはまったく逆のエネルギーです。

 

カタナの言霊は「片方を無くす」と言うことで、ツルギの言霊は「両方を揃える」と言うことです。このように、まったく正反対のものなのです。

 

いまの社会はまさに、競争相手を蹴落とす「カタナ」の社会です。日本は三種の神器と崇められたツルギの力をもって建てられた国です。それは万民和楽を意味します。

 

最後にもう一つ。

 

ツルギは「光輝いて活動する力」と言う意味があります。

 

私たちは、いまこそ、この日本の本来の姿であるツルギを世に出し、この暗黒の世界をもとの光輝く麗しい神代のごとくに戻すべく立ち上がらねばならないのではないでしょうか…などと、私たち和良久の稽古人は、大胆にもそんな使命感のようなものを感じて今日も稽古を続けています。

 

続く・・・

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