2007/10/15  
2008.11.03   

第19話 「生兵法怪我のもと」

今回は技の成り立ちをお話ししたいと思います。とくに私は空手出身者なので、格闘技について説明をさせてください。

 

ほかのことはともかく、こと格技に関しては、趣味や道楽でやってきたのではなく、かなり体を張ってやってきましたので、どこからどう問われても攻められても答えを引き出せるだけの自負はあります。

 

さて、格技の中でも私のやってきた空手といえば突いて蹴るという打撃だけの技しかないように思われがちです。しかし空手は多種多様な武器を使いこなす技術をもった総合格闘技的な要素があります。これは薩摩藩の侵略に対抗するために沖縄の武士たちが身近な漁業や農業の道具などを用いて稽古したためだと言われます。

 

空手はまさに戦いの中で生き残るために練られたコンバットの技であったのです。戦いの中で生まれた技術ですからその技はかなり実用的です。

 

その証拠に、空手は世界中の軍隊が軍事訓練として採用しており、また世界中のプロの格闘技をする者の必須科目になっています。また、テレビ、映画では空手の出来ないアクションスターはいません。このように空手は短期間に世界中の人々の戦う術の基本として注目され、一気に普及しました。

 

相手を叩く、蹴るというのはいわば人を押しのけて自分がのし上がるという本能的行為であり、その本能に触発されてか、空手人口は幼児から壮年まで多くの人々の競争意識をあおって普及を続けてきました。それだけに技も過去の動きにとらわれず、いつも時代をとらえて工夫され改良を重ねた斬新なスタイルをもって現在に至っています。ですから創始された当時からみれば一層過激でショーアップ化されたものになってきたと言えます。

 

一昔前までは、喧嘩と言えばくんずほぐれつして、相撲のような取っ組み合いが主流でした。安全、安心な時代でした。喧嘩しても、その怪我はちょっと擦りむくぐらいの知れたものでした。

 

しかし、近年は皆、殴る、蹴るなどの相手が死に至るような打撃スタイルに変わっています。これはテレビや映画の空手アクションシーンの影響が表れているのかもしれません。

 

よく道場生徒の募集において「老若男女誰にでも出来る」と言うキャッチフレーズを出しているのを見受けますが、これは、いわば、「体力があればだれにでも真似が出来る」と言うこと、そして「技のない喧嘩レベルの技術」であるということであります。このキャッチフレーズはそこに精神性の奥行きがないことも同時に露呈しているのかもしれません。

 

しかし、空手出身者として少しだけ格闘技を弁護いたします。ほんの少しだけですよ。

 

空手など格闘技は、戦いの場をもって強弱をはっきりさせます。これは有る意味誤魔化しのない正直でわかりやすい世界といえます。

 

なぜ、格技を弁護するのかと言いますと、現在、精神性を売り物にした怪しげなものがもてはやされつつあり、とくに「気」を売り物にする武道などと比べれば、私は空手のほうがよほど正直で謙虚な人が多いと思っています。

 

「気の力こそ最高である」などと大言壮語し、弟子相手だけに派手なパフォーマンスの技を披露し、対外的には戦わない(戦えない)達人たちが沢山います。しかも、戦わない(戦えない)くせに、我が流儀は最強などと根拠のないことを言うのですから、まったく始末におえません。これは同じ武道家として本当に恥ずかしいことと思うのです。

 

戦わないのなら最初から何が何でも「絶対」戦わないことです。試合はもちろん、稽古の中においても絶対「強い弱い」とほかの武道や武人と比較対照しないことです。

 

そういった強弱の次元に関することを死んでも口にしないことです。もし、どうしてもそれを口にするのなら、いつでも誰とでも戦う覚悟をすることです。その覚悟もないのにそれを言ってはいけません。

 

また、投げたり抑えたりなど相手が痛がる技も絶対行わないことです。「武道とは矛を止めると書くのだよ」などと「矛を止める力も無いレベル」なのに強がってほしくないのです。私は、あくまで武道家は頭が低く謙虚であってほしいと思っているものの一人です。

 

よく気の力を提唱する偉い?先生が、剣道家が剣で打ちかかってきたらこうする、空手家が蹴ってきたらこうする、柔道家がつかんできたらこうする、などと本や演武、また稽古で解説し実演していますが、そんな殺陣師のような素人じみた攻め方は普通(少なくとも空手の全日本選手時代の私をはじめ私の仲間たちなら)決してしません、と言いたいです。

 

 技を出す場合は、無造作に攻めたりせず、しっかり間を計り、タイミングよく、しかも的確にしとめるべく技を放ちます。(今回はこのことを皆さんに公開しようと思いましたが、どうも話しがほかのことに移ってしまいました。技の解説は次号とさせてください)

 

本当に殴りあったこともない者、本当に剱と剱の激突を経験したことの無い者が、安物の芝居のような立ち回りを演じるのは吉本新喜劇より滑稽に見えます。本物の気迫がそこにないからです。

 

「生兵法怪我のもと」と言いますが、そういった気の技を使うという偉い先生方が「勘違い」してしまうケースは意外と多く、それこそ気をつけないと大変な目にあうはめになるでしょう。それを裏付けるかのように、実はこんな話しがあります。今回はこの話に切り替えさせていただきます。(ごめんなさい)

 

ある古流武道の達人がいました。

 

その大先生、相手をまったく触れずに倒す技をもっていると広く宣伝をしていました。この技は無敵であると息巻いていました。

 

そう思うのも無理は無く、なにせお弟子さんたちが大勢かかっていくのですが、その大先生に近づくだけで吹っ飛ぶのです。これは凄いということで、あるマスコミ関係者が眼をつけ、是非、公でその技を実際に演じてほしいと依頼しました。

 

マスコミ関係者が大先生にその旨を依頼にいくと、なんとこれだけの金額をだせば協力してもいいと、こともあろうに条件どおりお金の話を出したのです。しかたなく、マスコミは条件を飲んでいよいよ公開の試合の運びとなりました。

 

大勢の見物人とともに、達人に向う対戦者を用意しました。無名の格闘家です。さあ、いよいよ試合が始まりました。誰もが、大先生の触れずに対戦者が瞬間に吹っ飛んでいく光景を今か今かと期待しました。

 

しかし、結果はなんとお粗末なものでした。開始そうそう瞬時に殴り倒されたのは達人先生の方だったのです。かする程度の軽いパンチにも関わらず、その大先生うつ伏せになって逃げ腰になり、出る鼻血を両手で押さえていました。驚いたのは対戦相手の若者です。あまりに勝負にならなかったので途方にくれてしまいました。

 

いつも大げさに吹っ飛んでくれる呼吸のわかるお弟子さん相手ならともかく、門外漢が相手となったら、まったくいつもの筋書き通りにいかないという現実を、皮肉にも本人が経験するはめになってしまったのです。

 

この話は、なにも今に始まった話ではありません。似たような話は昔からたくさんあります。私もこういった気の力をもって指一本で人を倒すと言う大先生に対し、私のほうが逆に指一本で倒した経験があります。もちろん私の使った技は気ではなく正当な力学を駆使した技です。

 

勘違いしないで下さい。私は気の存在を否定しているのではありません。むしろ大いに肯定している側の人間です。ただ、やるべき肉体的鍛錬を積まないで、棚から牡丹餅式に不思議な力を求めることに危惧を覚えているのです。ややもすると口先ばかりの偉そうな先生方が横行する武道界に警鐘を鳴らしたく思うのです。

 

いまは怖い時代です。嘘がつけません。なぜなら情報の流通があまりない一昔前ならともかく、現代のように誰でも生の現場の映像と音声を記録できる装置、機械をもち、またその時に起きた出来事をインターネットや携帯電話で即刻共有できる時代になったのですから。そこに「伝説」というものがまったく影を潜める環境となったのです。

 

昔は、話が口づてで伝わるごとに大きくなっていきました。映像や写真、録音などの証拠がなく、心のままに語り継ぐので伝説の生まれやすい環境だったのです。

 

例えばAさんが「わしが昨日山に行ったら、ちょっと曇ってきて雨が降りそうになってきた。それで木の下で雨宿りしようとしたら、そこにこれくらいの蛇に出くわした。その蛇に『ちょっとどいてんか』と、手で捕まえて草むらへ放った」と言う事をBさんが聞きました。

 

尊敬するAさんの言うことなので、Bさんはこの出来事を何か深い意味ありと解釈し、それをまたCさんに「Aさんが、昨日山へいったとき雨が降り出した。先へ急ごうとするAさんの前に道をふさぐような大蛇が現れたそうな、ははあこれは山の主じゃなと察したAさん、それを両手で抱えて遠くへ放り投げたそうな」と伝えます。

 

この話を聞いたCさん、今度はDさんに「Aさん、この前、山へ行ったら突然空が暗くなった。そのとたん、黒雲の中から山を覆いつくすばかりの巨大なオロチが現れたそうな。法力の優れるAさんは、『おのれ、おまえが里人を悩ます化け物か、ここで会ったが百年目、もうこの上は容赦せぬぞ』とオロチに向い、呪文を唱えて『去れ』と一喝したら煙のごとく消えたそうな」と話します。

                         

また、Dさんも他の人に伝えていき、段々段々話は膨れ上がって最後には、物凄い伝説や神話となって後世に語り告げられることになります。

 

このように、話しから話へと進むにつれ、最初の話とはまったく違ったものと変化することは、人間社会ではよくある現象です。ことに、宗教界、武道界においては日常茶飯事でありましょう。

 

続く・・・

 

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