2008/01/21 
2008.11.26  

第22話 「武〜根源美の探究」

私たち武道を志し、武の道を歩むものは、大いに体を動かし、また無い智恵を大いに搾り出します。それは、生き残りを賭けてより完璧な技を使いこなすために他なりません。

 神から与えられた、より完全な精神と肉体を作りあげるために、日々私たちは鍛錬を惜しみません。

 鍛錬を通して、神を讃美し、神の手足として活動出来るようになり、そして国を守り、弱者を擁護することこそ、私たちの望みです。

 

また、これは、いにしえの聖人たちのいいつけを守るためでもあります。

 技の完全性は、すなわち精神と肉体の融合を表します。これは、霊体一致という言葉で表現されています。

 いま、世の大半の人々が体と心とがズレを生じ、心身に非常なストレスを感じ、それに耐え切れず、自分や、人を傷つける行為に走っています。

 引きこもりの多い者、夜の闇に紛れて活動する者、それら皆すべて心が地獄に住する者の行いです。

 これら、心を閉ざされた者たちの心に光を照射し、日のあたるところに引きずり出す手力男の神の技の行使こそ、武の道にある者の役目のひとつです。

 光を投げかける時、あるいは倒れ、あるいは戸惑い、あるいははっと気づく者など、様々な様相を呈する者多数でしょうが、これも止むを得ないことです。

 

何が起ころうが、ただ、私たちはベストを尽くすのみです。

 人々に光を投げかけるとて、何も無謀なる手を下すのではありません。

 剱の技を知っているからとて、決して、その技を行使するのではありません。

 私たちは、決して叫ぶことなく、騒ぐことなく、淡々として静かに座しているだけです。

   

命を賭けて稽古を積むが、かといってそれにより培った技を行使しない。これが日本武道の精神であることを知るでしょう。

 黙して座り、大いに物申すと言う心境です。

 技の習得、つまり、究極の精神と肉体を創りあげる目的は、何も手出しをせず、瞬時に周囲を降伏(ごうぶく)させることに他なりません。

 何もしない・・・これには本当に圧倒的パワーが必要です。そのパワーを培うのが日々の稽古です。

 稽古を行うたびごとに、そのエネルギーは増幅されます。まるで、いつ噴火してもおかしくないような状態である凝縮力の言霊「ウ」をつくり出します。

 私たちは、もちろん平和主義者です。しかし、平和運動と言って、プラカードをかざして街頭を練り歩き、拳を固めて周囲に罵詈雑言を飛ばすようなことはしません。

 決して人に、非難や誹謗中傷はいたしません。物を壊し、燃やして威嚇などしません。と言って、無抵抗主義でもありません。

 何があっても、手を出さず、反撃せず・・・ではなく、私たちは周りに手を出させない圧倒的なパワーと威厳をもって「ここに存在する者たち」なのです。

 心ねじけた者には、触れれば吹っ飛ぶような内在的パワーを感じさせる存在です。

 しかし、心優しき者たちにとっては、どこか懐かしく、温かく、いつまでも傍に居たいような感情を抱かせる存在です。

 何もしないが、大いに何もかもしているのです。
 何も知らないようで、実は何でも知っているのです。

 それは、影で一命を投げて、一心に技を練っているからこそもてる自信と、それによって培った威厳に他なりません。

 その自信や威厳は、稽古鍛錬なしには到達出来ない心境です。

 いざとなった時にこそ(神のご命令の発令あった時)、初めて静かに立ち上がり、五体を投げ打ってただ淡々と技を遂行し、完璧にこなして後、また元の座に静かに黙って復するだけです。

 神は、古(いにしえ)より、いざという時の為に、常にこのような者たちを用意なさっています。

 いざとなったら、身を呈して、すーっと燃え上がる炎の中に入って行く者をいつの時代にでも傍の御簾の内にはべらせ、常に神の技を完全に遂行出来るように影で鍛錬させています。

 

ああ、願わくばその内の一人でありたいと、武を志す者であれば誰しも思うことではないかと存じます。私たち和良久も他なりません。

 ただ、現今、イザという様な事態にならぬよう、神は全力をもって取り計らっておられることはまことに有難いことだと思います。

 来たるべき時が来ぬよう、安々と良い世界が開けていくように、私たち人類は努めねばなりません。そういう意味で、稽古と言うのは本当に大事である、ということをつくづく思い知らされます。

 武道は、日本伝統芸能と言えば格好がいいのですが、私には少し抵抗があります。

 

私たちは芸能人ではありません。

 踊りを踊り、歌を歌って拍手をもらうような分野ではありません。

 日に当たれば武の道は失敗です。

 月のように、夜に輝けば成功と思います。

 月は、自ら光を放射するのでなく、日の光を受けて反射させて、この地球に恵みを与えてくださっています。

 このように、自らは影に控えて、月のごとく日の存在を立てる存在こそ武道の姿であります。


 表に立って美しさを追求するのでなく、裏に潜んで強さを追求します。しかし、その圧倒的な力を有した時の姿は、何ものにも勝る美を表現します。

 古来、武の道にある者は、多くの人々の憧憬を受ける存在であったゆえ、この武の身のさばき、心の持ちようを手本に様々な芸能が生み出されました。
 

 それを舞によって、謡によって、楽器によって、絵によって究極の武の調子、拍子、間を表現したのです。

 武の道にある者は、密かに、このことを誇りに思っていただいていいと思います。

 武は、矛と言う宇宙創造時に用いられた神器を手にして立ち上がると言う意味です。

 それを使いこなす姿こそ、完全な宇宙を表現するのではないかと、私には思われるのです。

続く・・・ 

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