2008.12.22  

第26話「観の眼と見の眼」

1 武の始まりは天の沼矛にあり

〜〜〜第25話に引き続き、京都大学で行った講演をベースに執筆された「観の眼と見の眼」を4回に分けて掲載します。〜〜〜

はじめに 〜 武道は霊的文化遺産

武道は、神道をベースに発達し、その命をかけた長い歴史の中において、人のもつパフォーマンスを最大限にまで高めるノウハウを確立し蓄積してきました。人の有するまったく無駄のない動きを求めて五感を研ぎ澄まし、もうこれ以上にない、究極の身体操作法だけをピックアップして今日にまで「技」として伝えてきたのです。

相手の動きを先に読む能力や、ほんのわずかな力で相手を跳ね返すなどの、身体能力の限界点を超えた現象を伝承し実践する武道は「日本が世界に誇る霊的文化遺産」と言ってよいと思います。

その究極の身体操作法を持つ武道は、能楽、茶道をはじめ、日本伝統芸能と言われるものに深い影響を与えています。呼吸法、体さばき、目つけ、心の持ち方などは、多くの伝統芸能をはじめ、今日の文明社会でも珠玉の手本とされ、また密かに世界に注目をされているのです。

実際、世界中の国々では、軍隊の教練として古くから日本武道が導入され、いまやアレンジを繰り返して、その国独特なマーシャルアーツという格闘術に名を変えています。武道は、ハイテクなマシンを使いこなす現代において、なお重要な人間の能力を引き出す訓練として欠くことのできないものに位置づけられているのです。

しかし、本来、武道は戦闘のための術として始まったのではありません。古事記に『天津神の、諸々の命もちて、いざなぎの命、いざなみの命に、二柱の神の修理して、この漂える国を成すによりて、天(あま)の沼(ぬ)矛(ほこ)を賜う』と記述がありますが、この“天の沼矛”の活用こそが武の道の始まりなのです。          

この古事記の記述からも分かるように、矛の活用、つまり武道とは決して破壊殺傷のためではなく“国生み、人づくり”という創造の技として興ったのが武道の起源なのです。

いくら便利な世の中になっても、それらの機器を使うのはわれわれ人間です。機械に振り回され人間性を失うことのないよう、これから、ますます、武道のもつ超アナログ的なノウハウが注目され、必要とされる時代になろうと予測されます。

五感の二極化

さて、人間のもつ究極の能力を引き出すという武の技の練磨は、まさに視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚などの五感を研ぎ澄ますことに尽きます。

武道において、それぞれの五感はすべて「体的」なものと「霊的」なものとの二極に分けられて考察されます。

例えば視覚は、これを体的に言えば「見る」と言って、物の動きをとらえることに用いられ、霊的に言えば「観る」と言って、肉眼ではとらえることの出来ない動き(誤解を恐れずに言えばエネルギー体そのもの)を感知する能力を指します。

聴覚は、体的には物が当たったときに空気中に発生する現象、つまり「音」や「声」を聞くことです。霊的には実際に耳ではとらえることのできないような音や、心の声などを聴くことになります。

触覚は、体的には相手の身体に触れて、互いに反応する動きに応じて投げる、打つなどの適切な技を繰り出しますが、霊的には相手に触れることなく、相手の身体や場そのものをコントロールする技を有します。例えば、肌感覚で、センサーのように敵の存在位置を認識する能力などがそれです。昔にあった「遠当(とおあて)」の術も、掌から発する触覚の延長で遠くのものを倒したり動かしたりする術として真剣に修行をされてきました。

味覚は、舌で感じる甘さ辛さなどで、武道とはまったく関係の無い感覚と思われますが、相手や周囲の場の雰囲気は舌を使って「場の気」を味見します。空気が甘いと感じるならば良い気が、辛いと感じるならば殺気があり、つまりそこは危険であるということになります。

嗅覚は、暗闇などで襲ってくる際に相手の体から発する刺激性を帯びた強い匂い(ホルモン分泌など)で相手の居場所を感知します。この犬のような動物的能力は体的であり、感じる匂いから相手の焦り、怒りなどの感情を読むなどは霊的といえます。

このように、五感のそれぞれを二極に分けて相対させ、その両方を同時に存在させる感覚を研ぎ澄ますことが武道の稽古でもあります。

五感は眼、耳、肌、鼻、舌などに分けられて考えられますが、私たち武道家はこれらすべてを細分化せずに、一つの総合的な感覚として考えます。五感はそれぞれが連結、連動しあって一つに融合しているのです。

例えば、眼は相対する物体をとらえますが、その物体の動きに鼻や耳や肌、舌などの他の感覚を連結、連動させてこそ、はじめて、その物体の本質を認識することができます。

そういうことで、五感を細分化してお話しするのは非常に困難ですが、今回のテーマは視覚ということなので、私も私自身の勉強のために視覚について考えてみたいと思います。

最初にこのようなお話しをしましたのも、すべては二極化して考えるという私たちの稽古のあり方をまずご理解いただいた上で、視覚について私なりの思いを論じてみたいと思ったからです。

第27話 「観の眼と見の眼」2 絵空事から現実の「技化」に続く・・・

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