2009.01.19
第28話「観の眼と見の眼」
3 腰と腹
腑に落ちる
よく時代劇での決闘のシーンで、お互いに決着が着かず進退が行き詰まった状態に入ったとき、片方の侍がふっと『囚われるな、おのれの私心を捨て、心を解き放て』と言った師の教えを思い出し、突然静かに眼を閉じて、刀を下ろし体の力を抜く場面があります。
敵は「これはチャンス」と勢いよく切り込んできますが、眼を閉じた侍はその動きをまるでスローモーションのような映像として心の眼で読み取って敵の太刀をかわし、見事に切り返して勝利します。
これは極端な話ですが、しかし、ありえないことではありません。修練を積んだ者は、すべての情報は頭ではなく腹(丹田)が処理することを知っています。腹は五感と密接につながったコントロールセンターのようなところです。この腹の指示に従って動いたり話したりすると、いわゆる「腑に落ちる」という現象が起きます。腑に落ちるとは、すべてが明らかになり納得すると言うことです。
ですので、いざとなったら「腹をくくる」ということが大切です。頭で考え、力んでいる間は本当の力が出てきません。困ったときほど丹田に気持ちを置いて気を鎮めると、五感の扉が開きます。
このように、体のもつ情報と力を最大限に表に発揮させる方法が、まず体の力を抜き、腰と腹に身をゆだねることです。外の力に限界を感じたなら、内の力にシフトチェンジするのです。眼を閉じることも一つの方法です。外にとらわれるのをやめ、内を見つめることによって、かえって外がよく見えてきます。これが見の眼が観の眼に変わった時です。
内を見つめる…そうすると、表面の固い既成概念にとらわれた自分が消え、内在するもう一人の自由な自分が表に出てきます。
潜在能力を発揮するにはリラックスすることが大切であることは多くの人が知るところですが、この決闘の話では、侍は「見る」ことをやめ、「観る」ことを始めたのが勝利に結びついたのです。つまり物理的な力みを捨て、霊的な感性を働かせたのが功を奏したのです。
肉体の眼(見の眼)を閉じて、心の眼(観の眼)を開くことを教える話ですが、実際、やはり眼を閉じるのは危険です。稽古においては、この二つを同時に行います。眼を閉じなくても心眼は開けます。キーワードはやはり「丹田」です。
五感は丹田から
五感の発信点は丹田にあると言って過言ではありません。丹田は、いわゆる「腹」と考えていただいてよいかと存じます。日本で言う腹とは下腹のことです。臍下三寸のあたりと教えられますが、丁度、仙骨の表側と言った方が分かりよいかと存じます。ここを鍛えるのには、腹を囲う腰を練ることです。
腹は腰によって力を得ます。日本は腰と腹という独自な文化を有した国です。土に親しみ、正座や礼儀など、腰を低くした生活が知らず知らずのうちに腹を強くしてきました。
しかし、その生活様式も西洋化し、腰をかがめ、深く礼をする姿が失われてきています。これが、腹の力、すなわち丹田のエネルギーを弱め、ひいては五感が鈍った原因と言っていいのではないかと思います。
相手の動きをよく見ると同時に、心の動きを観ることも忘れないことですが、この心の動きを見るのが丹田です。「物を見るのは頭で、心を観るのは腹で」と考えて良いのではないかと思います。
何かあったとき「気持ちを落ち着けて」とよく言いますが、具体的には「呼吸を腹(腑)に落として着ける」ことを言います。口、つまり頭で考えて言うことは虚偽を述べることが多いものですが、腹で言うことに嘘はありません。
昔、侍が腹を切るという行為を行ったのも、これで理解できることと思います。同じ命を絶つなら、一発で頭を打つ方が苦痛もないのですが、腹を切るという行為ほど激痛を伴うものはありません。
切腹は自殺的行為ではないのです。自分に嘘偽りなどないという潔白の証であり、腹にこそまことの生命が宿ると信じてきたことの証なのです。
五体を動かすのは心ですが、心はまた五体に左右されます。その心と体をつなぐ要こそ腰であり腹なのです。
心の眼を開き光の世界へ
心が体を動かす。これを「霊主体従」と言いましたが、心が何に向かっているかを理解すれば、その後に必ず動きがついてきます。心を読むことは体の動きを先に知ることになるのです。
また、相手の心を読むと言うことは、自分の心を深く知ることにもなります。心の世界は神というプロバイダーの中で、インターネットのようにお互いにつながりあっています。
ことに、睡眠時にそのアクセスが始まります。人類共有の心の世界へのアクセスであり、人と人が心でつながりあえる瞬間です。この心のネットワークにアクセスすれば、きっと様々な人たちからの情報を得ることが可能なはずです。
そのためには、人に対し、決して敵意をもたないことです。相手の心とアクセスするということは、相手を理解し愛することなのです。愛をもって接することによって、相手の心とつながり、相手の本音を知ることになります。
武道は神を愛し、人を愛するをもって技となすと言われます。これを「神武」と言います。逆に、破壊殺傷を目論む武道を「凶武」と言って、自他を同時に破滅させます。
映画「スターウォーズ」に描かれるジェダイの騎士にはフォースという力があり、それは光の力と暗黒の力があると言います。よこしまな考えによって光の力は闇に変わり、創造のちからは破壊の力に変わります。私は、この映画を観て、これは武道の極意の一端を伝える非常にうまい表現だと感心いたしました。
見の眼、つまり物ばかりにとらわれすぎると心の在り処を失い、それどころか心を闇の世界に運ばせます。闇の世界に入りますと、自分も相手も見えなくなり、自暴自棄に陥ります。
ああ、自分はいま物事に対し懐疑的だと察したなら、勇気をもって観の眼を働かし、本質を見極めることです。きっと、闇の奥に光る光明を見出すに違いありません。
物の豊富な現代です。表面の飾りにばかり眼を奪われがちです。見の眼で見ることは決して悪いことではありませんが、もう一歩踏み込んで、心の眼である観の眼を同時に働かせることで、一層心技が一体となり、人は奇跡的なことを成し遂げることが出来るはずです。
第29話 「観の眼と見の眼」4 稽古に続く・・・