2009.06.01  

第33話 「誇りをもって武道を行ず」    

1 、武道って何?

私は永年、武道という世界にいます。10歳のときからですので、かれこれ43年目になります。
 当初、武道は単なる「武道」というジャンルだと思っていました。 つまり芸事の一つぐらいにしか思っていませんでした。また、体を使うのでスポーツの一種だとも考えました。次に、武道は格技と思うようになりました。次に、武道は日本伝統芸術だと考えるようになりました。

このように長い間武道の世界にいる私でさえも「武道とは一体何ぞや」と問われたときに明確な答えは出せませんでした。ただ強くて逞しい人になるための方法と思っていました。鍛錬次第で超人になれるという夢が自分を支えていたのです。

2、武という字の意味

私は武道という字から考えてみました。周りの武道に関わる方たちに聞いてみました。
誰しもまったく疑いなく「武道とは矛をおさめる道。人を傷つけるためにあるのではない」という答えがかえってくるのでした。

私はこの答えには、どうもしっくりきませんでした。
なぜなら、誰ひとり漏れることなく、必ず破壊殺傷のための技を練り、それを使っているからでした。愛を唱え、試合を行わないあの合気道でさえ、稽古では確実に相手を投げ飛ばし、組み伏せているのです。

矛盾を覚え「相手を傷つけないのが武道ではないのか」と問うと「それは理想であって、現実はそんなやわなものなんかじゃない。殺すか殺されるか、それが武道だ」
このように先輩諸氏どころか、達人と言われる人でさえこのような答えが返ってくるのでした。

この世に矛をおさめることを実践している武道など一つもなかったのです。矛をおさめることはまったく机上の空論でしかありませんでした。私は「やはりそうか」と思い、一層相手を倒す技に虚しい気持ちで精進を続けていました。

そんな頃に大本に導かれ、言霊のことを学ぶうちに、腑に落ちる答えを見出したのです。

武の意味は、武力を排除せよというのではなく、むしろおのおのの身に正しい武の力をおさめよということを知りました。

武の字の矛(ホコ)とは、「火凝」と書き、神霊エネルギーが凝縮したものという意味です。その火凝の力を腹中におさめるというのが武道だったのです。宇宙を創造した神様の活動力を人体におさめる方法こそ武道の目指すところでした。

古来より神武一道という言葉があります。
神を求めれば武道になり、武道を求めれば神道になります。武道は、神の力を体内に取り込み、神と一つとなる「鎮魂帰神」の技として伝えられてきたのです。私はこれを知り、大いに納得しました。そして、この思想と技を世の人々に知らせることが急務と察しました。

その後、武道は私の考えていたすべての事象に当てはまりました。決して伝統芸能や、スポーツの一部という小さなジャンルに属するものではなく、むしろ武道は宗教、言語、文化、芸能、政治など、人類の生存に関わる法則性に深く関与していたのです。

つまり何かの枠におさまることのできないくらいのもの。人類の根源を震撼させるほどの重要な存在であったのです。
私はあらためて武道というものに恐れを抱きました。なんて物凄いものがこの国にあったのかと。同時に、なぜこういうことが知らされなかったのかという疑問もわきました。

3、本当の武道を求めて

さて武道の研ぎ澄まされた体の使い方と考え方は、すでに私たちの生活の中に息づいており、またその応用範囲は多岐に渡っています。

例えば、プロのスポーツ選手がスランプに陥ったときに武道の技にヒントを得て復活を成し遂げた話はよくあることです。スポーツをしない私にはわかりませんが、野球、バスケット、陸上、水泳など、おおよそ体を使う分野でスランプに陥ったときに、武道の理念や技が威力を発揮するというのですから驚きです。

また武道を修練したおかげで災難や犯罪から身を守ることができたという話などもよく聞きます。
戦争がおきれば戦闘術に悪用され、平和になれば精神修養法として重宝されます。

いまでも海外へいけば、武道をしている者は、その威厳ある立ち居振る舞いに対して、外国の方は尊敬の念で接してくれます。しかし、皮肉なことに、いまの日本より、遠い昔に海外へわたった武道のほうにこそ、日本の純粋な時代の精神性が残っているケースが多いのです。

海外にいきますと、一昔前の私たちの考え方がまだ息づいていることに驚かされます。そして、それは私たち武道家が顔を赤くする時でもあります。

これは変化してならぬものまで変化させて、無理に残そうとした弊害なのかもしれません。しかし、なにはともあれ、武道は最も効率よく、しかも強力に身体と心の潜在的能力を発揮させるノウハウを有しているのは事実であり、世界の人たちも認めているところです。

4、武道は言霊の力のほとばしり

このように、私は大本へ来て言霊を学び、武道とは宇宙の歴史であり、人類が神の力を継承するための方法であることを知りました。

武道の稽古は神事そのものです。決して奇声を発し、ドタバタと動き回るものではないのです。ご神前で演じても恥ずかしくない威厳に満ち溢れるものこそ日本武道の姿です。たとえばお能のような静かな力強さこそ大切なのです。

先に武道の別の表現を「神道」と言うことを申し上げました。武道は、宇宙創造まで遡る最も古い道であり、同時にいつの世にも通用する最も新しい道なのです。

「まことの学びとは言霊を学ぶことである」と古人たちは伝えていますが、この言霊の原理を的確に表すことができるのが武道なのです。武道は言霊によって生まれた最古の日本伝統芸術です。

繰り返しますが、武道は「火凝をおさめる道」です。「言霊」の別名を「火凝霊〜かごたま」と言います。言霊学は万物を産み出すエネルギー理論です。それゆえ古来より「言霊は神である」といいました。その中でも言霊のエネルギーである「火と水」(これを神といいます)の高度な融合により生み出されたものが人間なのです。いわば人は神が造った最高の芸術作品です。

「神は自分に似せて人を造った」と聖書に記されています。神は言霊の力(八力)によって宇宙を創造し、その宇宙を凝縮した存在である「人〜霊止」を造りました。(霊は一霊四魂を指す)

よって人は宇宙の凝縮であり、宇宙は人の拡大です。そしてそれを動かし育むものが言霊であると古人は言っています。
武道を学ぶことは「言霊を学ぶ」こと、すなわち宇宙を知ることになります。

5、武道は伝統芸能のルーツ

理にかなった理念と無駄の無い体の使い方を有した武道は、礼儀作法や言葉の出し方、ものの考え方などを生み出し、すべての動作を「技化」することに成功しました。武道はあらゆる文化の軸になったのです。

武道は茶道、能楽をはじめ、多くの伝統文化の基礎となり軸となりました。しかし、主客転倒し、いつの間にか武の道は忘れ去られ、軸のない枝葉ばかりが栄えてしまいました。

いまや表面の華やかさばかりに重点を置き、軸を見失った芸術が巷を横行闊歩しています。腰の座らないアーティストたちが浮遊霊のようにさまよっているのを見るにつけ寂しさと同時に憤りを感じます。

水火を練り、神を知るために始まったはずの芸術が、見せるための芸に堕ちてしまったのです。神を讃美するために生まれた技が、人に媚びるための技に堕ちました。

6、軸は腰と腹にあり

日本伝統芸術は、一言でいえば「腰と腹のありかを知る」ことに尽きます。
 
腹には丹田という強烈なエネルギー蓄電所があります。腰を練ることにより丹田の力は増幅し、それが放射されるとき奇跡的な力を生み出します。この丹田をつくるのが日本武道の基本です。

先に申しましたように、武道とは「ホコ」の道です。つまり剱(ツルギ)の技をもってこそ日本武道といいます。剱をもたぬ技は武道とはいいません。

 さて、他の芸術も武の技を見習って丹田を強化し、それを歌に舞に、また茶の作法に生かしてまいりました。丹田からほとばしるエネルギーあるがゆえに、歌に作法に周囲を癒し勇気づける力が醸し出されるのです。腹からの言葉、腰からの力こそ日本伝統芸儒の基礎エネルギーです。

能や茶を「武士の嗜み」と申してきました。様々なことを行うにしても、まず「武士」でなければならなかったのです。つまり武道を基本とし「軸」として芸術は成り立ったのです。

7、朽ちゆく木を支える芯のように

わが恩師は、これからは本物の時代が来るといわれ、この世を去りました。それ以来、恩師の思いに報いようと「本物とは」をいつも考えて生きてきました。無論、なかなか本物には手が届かずいまも悩む日々が続きます。

かく言う私自身がなかなか本物になれないジレンマの中、言霊の学びを通して、かろうじて本物の定義なるものは発見できました。
それは「永遠に変わらないものにこそ価値はある」という恩師の言葉にヒントがありました。

この言葉、恩師亡き後も、いまだ光彩を放って私を勇気づけてくれます。言葉の中にこそ人は永遠に生き続けるものなのか、と感慨ひとしおの思いがいたします。

このことを思いつつ、今日、山に入り稽古をしました。山中を歩いていると、落雷のせいでしょうか、大きな木が折れて倒れていました。しかし、私の腰辺りの高さから下の株だけは残っています。

思わず立ち止まって見ますと、年輪がはっきりと見え、そこに水が浸みこみ、木は朽ちかけています。その朽ちた年輪の真ん中に何やら光る物が私の眼に飛び込みました。それは直径1センチほどの芯でした。

周囲の朽ちた木に対して、その芯はまるで紙ヤスリでもかけたかのように汚れもせず綺麗に、しかも真っ直ぐに立っていました。手で触れますと、周囲の年輪層はぽろぽろと崩れていくものの、その小さな芯は鉄のようにとても固く、その芯の力だけで朽ちている木をしっかりと木を支えているのです。何という力なのでしょう。

まだ寒い山中の中で、春を待ちわびて朽ちゆく木を支える芯の強さに勇気をもらいました。そうして自分の体の芯はどうかと自問自答しました。

腰と腹がぶれかけ、芯が朽ちかけてはいないかと反省を深くし、山を下りて、あらためて腰をすえて剱を振りなおしました。

8、武は太古の神の力

大本は太古の昔に封印された本物の力をふたたびこの世にあらわし、元の神代に立て替え立て直すために出現しました。そう思いますと、合気道をはじめ、親英体道、言霊剱、和良久と、次から次へと類まれなる武道が生まれるのも、あながち不可思議でもなく、むしろ当然の現象のように思えます。

大本の神様は、宇宙の主宰神である大国常立之大神様と、その神業を支えるスサノオノミコト様が主になっています。大国常立之大神様は矛を、スサノオノミコト様は剱を持ってこの世を守っておられます。私たちはこの神様に祈りを捧げつつ日々技を練らせていただくことに深い喜びを感じています。

古来より破壊殺傷をうながし、人を狂気におとしいれる闇の力を「凶武」と言ってきました。これに反して、平和な世界を招来させ、人の心を愛で満たす光の力を「神武」と言いっています。

今まさに世は凶武まっただ中の時代です。これを神武の世にかえすべく、私たち人類はその手に、その心にまことのツルギを携えて前進していく覚悟を持たねばと思います。

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