2010.04.12  

第43話 「未来の子供たちにこの技を捧げる」

1、師弟関係

稽古事における技の伝承は、基本的に一子相伝である。100人いても一子相伝である。人は皆違う。一人一人に教えるつもりで大勢を教える。

師が弟子に対して命を吹き込む作業はそう容易くない。自分の全身全霊を、伝えるべき技を通して叩き込むのだ。ゆえに師はいつも弟子の将来を思う。それは弟子の技の上達のみならず、弟子の人生に関わるすべての問題について心をくだく。やがて師である自分を超え、世の鏡となって活躍してくれることを望む。なにより伝統ある素晴らしい文化を、自分が世を去ったあとも忠実に受け継いていってくれることを望む。

かつて自分も師から受け継いだように、今度は弟子に引き継がせていく。それはまるでリレーのバトンをわたす時のようだ。師が必死に駆け抜けてきた人生を今度は弟子が受けてまた走り出す。それにより師の魂は弟子の中に生き続ける。引き継ぐという言葉は「霊継ぐ」ということである。

弟子にしても、道場以外からも師の言動を細微にわたり学び吸収していく。弟子はいつも師を思い、師の動きに注目する。

師はいつも弟子にとって最高の存在であり続ける以上、師自身も常に研鑽を怠ることはない。弟子は自分の教え子であると同時にライバルともなる。縦と横の関係が一気に生まれる。このように師弟関係は、親子、友人、顧客関係のどれにも当てはまらない、まことに特殊な関係である。

2、日本の稽古

稽古という言葉の持つ意味は古(いにしえ)を思い考えること、先人たちの心と技を無条件で受け入れるということである。和良久の稽古は、通常の目からは封建的であり、閉鎖的な世界に映るだろう。

和良久の稽古が祭儀にのっとっている以上、祭典が終わるまでは稽古中の私語や勝手な振る舞いはご法度である。これを不親切と思われる方は和良久、いえ日本伝統の稽古事にはあわない。そもそも厳粛なる祭典中に私語をするだろうか、またいちいち次は何をしますと説明を加えるだろうか。新しい方は、稽古の流れを見て次は何を行う、これは何を意味する・・・と察していただくしかない。

この封建的な日本の稽古事に対し反感を抱く方も多い。なぜ質問をしちゃいけない、なぜ正座をする、なぜ礼をする、なぜ、なぜ、なぜ?

稽古を素直に受け入れず最初から疑問ばかりもち、自分の納得しないものに対しては不満に思う方。 また師も生徒もない、先輩も後輩もない、横のフラットなつきあいこそ文化的であり、平等な人間の姿だ、などという方。こういった方々。失礼であるがどうぞ稽古をご遠慮願いたい典型的な方々である。

根源の部分を守り抜くためには稽古のあり方を閉鎖的にする必要がある。閉鎖することによって精神と技術は固く守られていき、正しく後世に伝えていくことが可能となる。

技の真実を守るために、弟子や後輩に媚びへつらうことなく、威厳と格式をもって稽古をすすめる。それは求め来る者にのみ道を開き、去る者を追わないドライさがある。時に不平分子を切り捨てる覚悟もいる。

本当の技を極めるためには、世の流行に流されず、あらゆる世間のしがらみを絶って行動することが必要となる。入門とは個の意思を滅却させ、いにしえの流れに沿い、師と同化し、道と心中する覚悟をもつことである。技の習得を完了するまで我を捨てるのだ。

真の技の伝承は、出家にも似た覚悟をなし、道を理解する限られた少数の者にしか伝授できない。これは職人の育成と同様である。本物の職人は大量生産できない。あくまでも職人たらんと欲する者本人が自分の意思で門を叩き、頭を下げて技の伝承を希うのが筋である。

弟子はお客さんではない。

礼儀節度が失われていく昨今、和良久の中では稽古の内容のみならず、稽古人同士の付き合い方も少々他人行儀と言われても丁寧にお付き合い願いたい。

馴れ馴れしい態度はよくない。長く親しく人と付き合っていくならばお互いの制空権を犯さない間を保つことだ。武道和良久は、これから先も一般受けしない考え方と一般受けしない技術をもって突き進むだろう。このように時代に逆行しこの技が生き残っていけるのかどうか、それはわからない。もし、不必要であるならば消滅すればいい。

和良久の道は厳しいといわれてもこれぐらいの態度を貫かないと、言霊の理と技を残せないし、たとえ残っても妙にいじくられ変化してしまう恐れがある。

3、論文ではなく童話や絵本を書く

和良久は以上のように鎖国を敷き、妥協を許さぬ厳格な稽古を続けてきた。特殊な稽古であるがゆえに稽古を継続する方も限られ、増えるどころか徐々に去っていく有り様である。だからといって、人の気を引くために世の流行に合わせることも行わなかった。

今日まで何とか和良久が存続できたのも、いまの少数の稽古人さんたちが支えてくださったお陰である。このままでは和良久が広がるどころか、その厳格さと難解さゆえ、和良久が消えていく懸念もないことはない。しかし「こんな時代であるからこそこういった技が必要なのだ」と自分を励まし倒れかける自分を支える昨今である。

しかし私は「和良久というものは厳格で難しいものなのだ。縁ある者しか稽古できないのだ」などと高飛車に構えるつもりはない。

いま、恩師の言葉を思い出している。
「おさなごに理解させてこそ本物である」

難しい動きをやさしい動きに、難しい言葉をやさしい言葉に変換できてこそ本物。

光は拡大しても縮小しても光は光なり。

稽古人さんたちと汗を流したこの10年で和良久の根(理念と実践)はしっかりと地に根づいた。さあ次は幹を伸ばし枝葉を張ろうかとようやく思えるようになった。どうせやるなら、どの枝も葉もどの部分も質を落とすことなくしっかりしたものをつくろう。そして誰もが見惚れる一本の銘木に仕上げよう。この銘木の成長の様子を絵本にしてみよう。

すぐれた絵本や童話には、高遠な宗教観や哲学が含有されている。そろそろ和良久も幼い子供たちのための本を書こうと思う。もし和良久が本物なら、難しい哲学書でも楽しい童話でも書けるはずだ。この本が完成してこそ真の意味で和良久の完成となるだろう。これを未来ある子供たちに捧げたい。

家にも奥の間に入るまでには途中いろんな間を通る。門、玄関、応接間・・・。門で帰る人もいる。玄関で軽く立ち話をしたいこともある。応接間でゆっくりしたいこともある。そしてやがて奥の間に入っていく。

いまの稽古人さんたちは奥の間まで入ってこられた方たちだ。やはりよほどのご縁があるとしか言いようがない。しかし、誰も彼も皆さんのような方たちばかりではない。

門のところで入ろうかどうしようかと迷っておられる方たちも随分多いと思う。
また、雨がふっているのに門前で無邪気に遊ぶ子供たちもいる。

入門と言う言葉があるが、この門をくぐるのは屋敷が立派であればあるほど敷居が高く感じ入りがたい。玄関に向かうには勇気もいる。そんな、門で躊躇している人、雨にぬれる子供たちにやさしく声をかけ、中へ案内する親切心を忘れてはならない。そのためにも絵本を書こう。

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                第44話につづく

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