2010.08.23 

第48話 「歳をとる有り難さ」

若い時代は、心より肉体の力が勝り、気持に余裕がなく、何かと力んで動きます。でも、これでいいのです。若さとは体でぶつかって学ぶ時代なのです。しかし、年齢を重ねるに従いまして、肉体の力は衰え、逆に心の力が表面に現れてきます。肉体の時代から心の時代に入っていきます。肉体の機能が低下していく分、霊魂が活発化していきます。本当の力は、ここから始まります。

スポーツと違って武道などの日本伝統芸術は、生涯を通して心の働き、ことに神と人との関わりを学ぶ分野です。一言でいえば、我が国の習い事は鎮魂をなすために生まれたといえます。体を動かすのは心です。その心を包括する存在が、霊魂であり、われらの霊魂は神霊より流れてくる力の影響を常に受けています。従いまして、力の根源はご神霊によるものであり、守護いただくご神霊に力を受ける自分づくりが肝要であることは言うまでもありません。

いくら肉体を鍛錬し、技を学んでも人というものは悲しいことですが力の限界があります。早くから心の在り方を求め、そのルーツを探ることはとても大事なことです。ことに、真剣に道を求める者には、誰しもがここに行き当たる問題ではないかと思います。体を動かすのは心、心を動かすのは神であることを知れば、その神がいかに正しい神への信仰を選択するかが大切になってきます。

「えっ、神に正しいも悪いもあるのか」と思われる方もおられるかもしれません。神には、正しい神と悪い神、またどっちつかずのいい加減な神もいます。「私は信仰している」と言っても、いったいどのような神に対して信仰をしているのかが大事です。素行の良くない人は、知らず知らずに悪神を信仰している人です。人を恨み憎み妬みなどしているのは、悪神信仰の典型的なものです。このような心構えの人は、やがて他人または自分自身を傷つけ社会の秩序を乱します。

正しい神の守護を得ますと、年齢により徐々に肉体が衰えても、心の働きは衰えることはありません。それどころか、ますます心の活動量は増し、気のほとばしりが強くなってきます。気の力を使える・・・これは歳を経たことによる特権です。かの合気道の創始者、植芝盛平先生も本当の気の妙用を発揮したのは70歳を超えたあたりです。

武道にとって、年齢を経るというのは悪いことではなく、本当の実力が身につく時期が近づくという、非常に良いことなのです。若い時期は、体力が勝りますので、なんでも力でごまかします。しかし、八力というのは筋力ではありません。水火の力こそ八力なのです。水火の力の一つである呼吸力は、やはり体の無駄な力を取り払ってこそ使える技です。

若い時期は、かなり意識して力を抜くことを行いますが、歳をとれば自然に力も抜けて呼吸力が働きやすくなります。私は、歳をとるのが楽しみです。もっと若い時代に帰りたいとおっしゃる方がいますが、私は若い時代に帰りたくはありません。いまが最高であり、これからますます歳を経るにしたがって、本当の技が身につくことが楽しみでなりません。

稽古人にとって、歳をとることは有り難いことなのです。

さて、和良久の技も「中の剱」に入り、いよいよ本格的な稽古に入ることになりました。 中の剱は、重、軽の剱をより凝縮した剱です。いわゆる気の鍛錬のための技です。私は、ようやくこの稽古に入ることが出来た喜びでいっぱいです。また、今の稽古人はここまで辛抱してよく残ってくれたものだと感謝せずにおれません。 いま入門される方も、この重要な稽古に入る時期に来られ、よほど御縁があるのではと思います。

いままでの稽古は序章でした。本編はこれからです。

剱を打たずに水火を打つ。剱を見ずに水火を見る。剱を組まずに水火を組む・・・このような「剱の技から気の技」の以降になります。見えるものから、見えないものをとらえる稽古こそ、わが言霊剱の本義です。また、少しずつこの「中の剱」につき解説をしていきたいと思います。皆様との今日の御縁を大切に、今年も精いっぱい技を磨き、神様の御心にあった自分づくりを互いに進めてまいりましょう。
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         第49話「和良久の説明〜武道とは何」につづく


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