2011.05.30     

第59話 「瞬間に賭ける心」

 

1、武道は鎮魂帰神のための技術

日本武道を行ずる目的は「スサノオの神のおはたらきを偲ぶ」ことです。ご承知のようにスサノオの神様は宇宙最強の神様です。しかし、剛健な外観に比して、内心は女性のようにお優しく温かな気性の持ち主です。周囲に疑いをかけられ、蔑まれ、また虐げられても決してくじけず、ひたすら創り主のお言いつけを守って正義を断行されるお方です。

世界中の罪という罪を一身にうけ贖うということは、よほどの強さと忍耐がないとできることではありません。人から唾をはきかけられ、罵詈雑言をあびせられようが阿呆を演ぜられるのも、この神の強さの特徴です。内に本当の自信が秘められていれば、あらゆる嘲笑にも笑っていることができます。

何でも知っていて何にも知らない、何にも知らないようで何でも知っている・・・これは先の誌上講座でご紹介した「ならひ得たれば、又習はなく成る也。これが諸道の極意向上也。ならひをわすれ、心をすてきって、一向に我もしらずしてかなふ所が、道の至極也」という新陰流兵法家伝書の一説と通じるものです。

阿呆になれることこそ、道を求める者の姿なのでしょう。しかし、いかに創造主のお言いつけとはいえ、その精神的、肉体的苦痛は図り知れず、なかなか阿呆になることは、私たちにとって至難の業です。過去にキリストが、そして出口王仁三郎が人類の霊的救済を行うため進んで受難にあわれました。これはすべてスサノオの神のおはたらきの再現です。私たちは容易に聖人たちの真似は出来ませんが、しかし「偲ぶ」ということはできます。このスサノオの神を偲び、創造主に使っていただきたいと願って稽古を重ねる過程において鎮魂が生じ帰神に至ります。

武道が鎮魂帰神の技であることを知る人は稀です。私たちは神と一体となったとき信じられない力が現れます。ですから私たち和良久のいう強さとは「神人合一」により得られる状態のことです。私たちが稽古において、天津金木を置き足らわして火水(神)の形を偲び、天津菅曾を八針に取り裂きて火水の力を偲び、天津祝詞を奏して火水の声を偲ぶのも、この神人合一の境地を目指しているからです。

 

2、螺旋は一つ一つの確かな動きのつなぎ

和良久の技は螺旋を描くなめらかな連続性のある動きが特徴です。それは八力を組み合わせた結果の姿であり、そこには、ただ単に剱を振り回すだけではなく、一本一本の動きにはこの八力という腰の入った力が内在しています。腰が入るということは重心が落ちていることです。重心が落ちると軸が定まります。軸が定まると綺麗な旋回が発生します。旋回運動には、上下前後左右に対照的な絶対バランスを整えるという副産物が生じます。

そのバランスのとれた姿は、行う人も見る人も強さと美しさの二つを同時に感じさせます。それはまるで大自然の雄大で神秘な姿を見るのと同じです。古来より良い器には清らかな水が注がれるといわれます。私たち武道を行する者は、呼吸をはじめ、体の姿、形を正すことによって神と感応し、心が磨かれることを信じています。これは先に言った鎮魂です。

さて、稽古の見直しをいたしましょう。今年のテーマは「気迫の充実」でした。その気迫がよく現れるのが「打ち」です。この打ち方ですが、仕方においても打方においても「打ち」は行いますのでしっかり身につけていただきたいと思います。まず、いまの皆さんの打ち方ですが、はっきり申し上げますと、皆さんの打ち方は「当て」であって、「打ち」にはなっていません。

当てとは、文字通りただ当てているだけで打ってはいない状態です。例えば、大根を切るときまず包丁を大根の上に置きます。これが当てです。大根に包丁を当てているのです。次に包丁に圧力をかけて押しますと大根は切れます。この押すことが打ちです。

さて皆さんの打ちはどうでしょう。単に当てているだけになっていませんか。私が空手時代にやっていた流儀は上記でいえば「打つ」部類の空手でした。「直接打撃制の空手」と言ってましたが、いまはフルコンタクト制といいます。これに対し「ライトコンタクト制」、俗に「寸止め」ともいいますが「当て」だけの空手もあります。

私たちの若いころは、当てる格好だけでは満足できず、実際に当てて打ち倒す空手に熱を入れたものです。お陰で当てると打つの違いを体で知ることができました。腰を入れずに動くと、当てることは容易ですが、相手は倒れません。逆に腰を入れて動くと、なかなかヒットしません。この割合が難しかったのを覚えています。

「当て」は、腰を入れずに動けばすぐできます。例えば剣道もそうです。竹刀を防具に当てるとポイントとなり勝敗が決まります。腰を入れないと動きが軽くなるからフットワークがきくのです。フットワークがきくと機関銃のように技を繰り出すことができます。しかしこれでは技に威力がなく、また肝心の魂の鍛錬にはなりません。

武道をはじめ能楽や茶道など日本伝統芸術はすべて腰を入れます。腰がはいると腹、つまり丹田ができるので精神修養になります。本来の日本の技の特徴が腰と腹の力を生かすことです。先の腰を入れない動きを機関銃といいましたが、この機関銃に対して腰を入れる動きを「大砲を発射するように」と表現したほうがいいでしょう。一発で終わらせるという集中力と凝縮力を培う中で心は育まれていきます。

能楽のあの腰の入った重厚な動作に比して、日本舞踊は逆に腰を抜いて動きます。これは腰を入れないことによって、軽さとともに色気が生まれ大衆の好むところとなります。腰の軽い人といいますが、色気を出すことは天魔外道が入り込む状態といえます。

武道がスポーツ化したとき腰と腹の身体意識が消えました。舞踊もスポーツ化した武道と同じかもしれません。大衆化することによって芸は広がりますが、道は消えます。武道もスポーツ化によって急速に世界に広がっていきました。しかし道が消えました。


3、稽古法

前置きが長くなりました。稽古の方法ですが、いままで当ての部分で止める稽古をおこなっていたせいか、皆さまの打ち方に迫力を感じられなくなったように思います。本来、「当ての部分で打ちの威力を出す」ことが理想ですが、最初からそうはいかないようです。上達いたしますと、軽く当てるだけで強烈な打ち同様な威力を発するようになるものですが、これに至るにはやはり正しい力の使い方を学ばねばなりません。

分かりやすく言いますと、いままで野球でいえば、正確に球に当てるバントの練習ばかりやっていたといえます。今度は振り切ってホームランを狙ってみましょう。打ち方を、ななめの傾斜で止めていましたが、これを下まで振り下ろしてください。もちろん受ける側は、当ての部分で組みます。重軽の剱を使うとき、受けのタイミングを逸して剱が組めずスカを食らうこともあるでしょう。受けようとしたらすでに相手の剱は下へ降りていたということです。

スカを食らうだけならいいのですが、側面への回り込みをする足さばきが不十分なため最悪、頭部に打撃を食らう恐れもありますので、十分注意をして、慣れるまでゆっくり目に行ってください。

では打ち方の稽古です。

 打方は、相手との距離を縮めて踏み込み、弧を描いて打ちを放ちます。「合」であれば「左足」「右足」と踏み込んで打ちます。この右足が大きく踏み込んで前屈となって打った時はまだ「当て」の状態となっています。右前屈から左足を手繰り寄せて、両足がそろったときは剱が十分下がっています。これが打ち抜いており、腰が決まった状態です。

このとき、仕方は相手の側面に回りこんで受けている状態です。仕方はこの「相手の側面」もしくは「背面に回り込む」ことを学んでください。次に、仕方は打ち返してきますので、打方は側面、または背後にいる仕方に対して慌てずに剱尖をつけて「ウ」となり、打ち返しに備えます。仕方は打方に対して、これも打方の打ち同様にしっかり踏み込んで打ち返します。このように、一本一本力強く腰を入れて打つことを稽古してください。

呼吸は、吸いきるか吐き切ることが大切です。途中で呼吸をとめたりしないで、しっかり吸って打ちあげ、しっかり吐いて打ちおろすのです。あとの動きは後でやればいいのです。メリハリのある打ち方、受け方ができるように心がけてください。

しっかり打ちこむことによって、しっかりした受けが成立します。強い攻撃力は、強い防御力を生みます。お互いにこうしたメリハリのある動きを行うことによって日常的にもケジメある動作と気迫が培えます。中途半端はいけません。竹を割ったような気性といいますが、武は竹なりといわれます。まっすぐ伸びてはいますが、一つ一つ節目を重ねて伸びているのです。しかも、柔らかくしなり、割れば切れ口は刺さるほど鋭利になります。

技も一本一本節目があってつながっています。私たちも技の数を覚えることに終始せず、一つ一つの部分のパワーアップを図るべきです。「下手な鉄砲も数打てば当たる」ではなく、一発を狙った瞬間に賭ける心こそ大事にしたいものです。やがて皆さんの打ちは、当ての格好をするだけで強烈な威力をはっするものとなるでしょう。

今日がだめなら明日があるではいけません。今しかないと心得て生きるところに永遠が広がってきます。瞬間に永遠を見るのです。その時あなたは輝くでしょう。神のように。
――――――――――――――――――


志あるリー ダーのための「寺子屋」塾トップページへ