2011.06.20     

第60話 「いつも真ん中に向かって」

 

稽古を通して中心を知ることになります。肉体的な中心。精神的な中心。稽古は物事の中庸を知る旅ではないかと存じます。そして稽古とは「ス」の言霊の追求です。

「ス」は点であり全体です。「ス」はひとつであり、すべてです。
 「ス」は天であり地です。「ス」は鎮魂であり帰神です。

前でもなく、後ろでもない、ちょうど真ん中。
これは前でもあり、後ろでもあるということ。

上でもなく、下でもない、ちょうど真ん中。これは上でもあり、下でもあるということ。

 右でもなく、左でもない、ちょうど真ん中。これは右でもあり、左でもあるということ。

こっちでもなく、あっちでもない、ちょうど中間。これはこっちでもあり、あっちでもあるということ。

速くもなく、遅くもない、ほどよい時間。これは早くもあり、遅くもあるということ。

 強くもなく、弱くもない、ほどよい力。これは強くもあり、弱くもあるということ。

広くもなく、狭くもない、ほどよい空間。これは広くもあり、狭くもあるということ。

 偉いとも思わず、卑しいとも思わない、淡々とした気持ち。これは偉いとも思い、卑しいとも思うこと。

悲しいとも思わず、楽しいとも思わない淡々とした気持ち。これは悲しいとも思い、楽しいとも思うこと。

怒ることなく、喜ぶこともない淡々とした気持ち。これは怒ることであり、喜ぶことでもあるということ。

語るでもなく、黙するでもない、ほどよい会話。これは大いに語ることであり、また貝のように黙することでもある。

恐ろしいとも思わず、恐ろしくないとも思わない平常心。これは恐ろしいとも思い、恐ろしくないとも思うことである。

あなたでもなく、私でもない、自他を離れた境域。これはあなたでもあり、私でもあるということ。

死にたいとも思わず、生きたいとも思わず、死生を離れた境地。これは死ぬことであり、また生きるということである。

すべてのものに、なすべき時があります。

 すべてのものには、とるべき間があります。

 すべてのものには、あるべき場があります。

この、すべての真ん中を探究する過程、すなわち技の練磨の中において鎮魂が生じます。  

 技の練磨は、速さ、強さ、バランスの微妙な調整を行うことです。

完成度の高い技を独楽で例えることができます。独楽に紐を巻いて、勢いよく投げつけますと独楽は回転を起こしてまっすぐ立ち上がります。勢いよく回る独楽はまるで止まったように見えます。そこに小石などをぶつけますと跳ね返します。前後上下左右、どこからぶつけても跳ね返します。

止まっているように見えて、実際は物凄く動いているのです。この状態こそ技の理想とするところです。技の練磨により、精神的に肉体的に中心への回帰ともいえる状態に入っていくことで鎮魂がおこり、帰神に至るのです。

武道は日本が世界に誇る素晴らしい文化です。それは人間の心と体を究極まで練り上げ神に近づける道筋を示しています。私は武道(和良久)とは、現存する他の伝統文化の追従をまったく許さない素晴らしい答えを秘めていると信じています。そして命をかけて悔いのないものという気持ちはいまだ衰えていません。ただ、日本にいてこれを知らない人がいることを非常に残念に思います。
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