2011.10.03       

66話 「稽古は守護神の入れ替え」

稽古は「いにしえを思うこと」と言うことをいつも皆様に申し上げています。稽古は、過ぎ去りしよき時を思いその中から学びを得ることでもあります。

私は、稽古は「ウ」の言霊の追求であると教えられました。ウは物事の中心をさす言霊です。ウの言霊の魂は一霊四魂のうちの一霊、すなわち「直霊(なおひ)」といいます。これは省みるという心です。またウの言霊は「うしとらのこんじん様」の「ウ」であり、これは宇宙ということです。

※ 宇宙(ウ)の芯〜中心軸(シ)より、とどめ(ト)の螺旋的活動(ラ)をなす、根本、根元(コン)の神(シン)

このように、稽古とは、己を深く省みることにより自分が宇宙(すなわち神)とひとつになることでもあります。この鎮魂帰神による「神人合一」こそが、稽古の主眼なのです。

過去の聖人たちがよく書にしたためる言葉で「宇宙即我」 または「我即神なり」という言葉があります。これは先人たちが決して思いあがることなく、いたってごく自然に出た言葉であると思います。神というのは「まったき正義」であり「完全な愛の形」を指す言葉です。

私たちが神と言うとき、そこに妬み、恨み、悲しみ、怒り、消極といったマイナスの力はまったく存在しません。神の言葉を口にだすとき、そこにあるものは謙虚、光明、癒し、慰めであり、また積極的で楽天的、そして慈愛に富んだ尊い心に包まれた自分というものがあります。

神という言葉を出しながら、周囲を威圧するような奇声を発し、無謀な力をふるい、人を憎悪の目でみる人がいるとすれば、それは邪神の入れ物になっている人です。

まことの神は、千早振る存在、つまり細やかな心と行いと言葉をもった存在です。邪な神は、荒振る存在、つまりきめの粗い心と行いと言葉をつかう存在です。

私たちは稽古を通して神の心を学び、神の動きを学び、神の言葉を学びます。すなわち正しい「神がかり」の状態になることが稽古であるといってもよいでしょう。

このように、一般に神がかりといいますと、なにやら怪しい霊がかかって妙なことを言ったり、奇抜な行動をするように思われがちですが、本来の正しい神がかりというものは、決してそういう状態に陥るものではありません。

正神、正しい高級神霊というものはまことに高い品格と威厳があります。人に正神がかかってこられたときは、その人の周囲の空気が澄み切ったようになり、香しいかおりが漂い、素晴らしい心和む音楽が聞こえているような感じがいたします。

かかられた人の態度も背筋が伸びて腰と腹が落ち、五大父音のはっきりした言葉づかいと、品位ある立ち居振る舞いになります。もちろん人心を惑わすような奇妙な話は一切せず、無駄な言葉もなく、真理につき必要不可欠な内容を平易な語り口で淡々と語りだします。それは、大本の歴代教主様方の立ち居振る舞いやお話しぶりをみれば、ああこれが正神のかかられた状態かと察することができます。

また、国祖大神のお言葉である「おおもとしんゆ」や「霊界物語」などを声を出して読まれることでも、神様の言動を学ぶことができます。

和良久の稽古は、言霊の法則に従うことによっておこる神がかりの技です。神がかりとならなくては、まことの技はつかえません。

心を入れ替えるといいますが、おのれの心は入れ替われるものではありません。この守護してくださる神が入れ替わるのです。世のため人のためにと大志を抱き活動をおこす者には「これはわし如きじゃいかん。もっと力のある神でないと・・・」と言って守護神の入れ替わりが起こります。

先ほども申し上げましたように、神がかりはおかしな状態になることではありません。むしろ人の世にあるべき姿を現すだけのことなのです。それは「正しい言葉、正しい行い、正しい思い」をあらわすことです。すなわち、私たちの稽古の教材になっている「天津金木、天津菅曾、天津祝詞」の行事を執り行うことこそが鎮魂帰神につながるのです。

私たちには、私たちの心と魂以外に、それぞれに守護神という存在がついています。私たち人間の現界的ネットワークはごく限られた範囲でしかありませんが、守護神のもつネットワークは宇宙規模です。それは高い守護神ほど強くて広いネットワークを有しています。また高い守護神は産土の神や高級な神霊との間も取り持ってくださいますので、高い守護神のついている方はどこへいっても運がよく、災難に巻き込まれず、素晴らしい方との出会いに恵まれるのです。

先ほども言いましたように、私たちは時々刻々、守護神の入れ替わりがなされています。大きな志を持つ人にはそれ相応な守護神が現れて「タッチ交代」とばかりに、入れ替わりが行われます。

神様の真似をすることによって、私たちは神がかりの状態を体験し、いまよりもなお高い守護神様と入れ替わっていただくのです。私にはいまどのような神が守護してくださっているのかを思い、その神様に不足のない自分であるよう努めねばならぬことはいうまでもありません。せっかく稽古でよい守護神さまに入っていただいても、また日常に戻って心を汚すようなことがあっては守護神に申し訳ないばかりか、あいそを尽かされて離れてしまうことさえあります。

私たちの体は霊魂や守護神の入れ物です。よい器には綺麗な聖水がそそがれます。汚れて壊れかけている器には泥水が放り込まれるでしょう。



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