2011.10.17       

67話 「それならばこうすればよい」

私は大本に来させていただく前は、京都の南禅寺にお世話になっていました。もう26年も前のお話です。

私のいましたのは、南禅寺の門を入りまして左に右にと道をとっていきますとあります通称「達磨堂」といわれる慈氏院というお寺です。寺は御手洗義文老師、そして家事のお手伝いをされるお琴さんというおばさんがいらっしゃいました。

当時、老師様は80歳ほどでしたが、日々早朝から広い寺院内の各仏様への勤行や、お庭の清掃などをおひとりでなさっておられるとてもお元気な方でした。しかし老師様は若い時、お医者様からさじを投げられるほどの大病にかかられておられたそうです。その時の病気のせいで老師様の背骨は大きく曲がって、背中にまるでコブがあるかのような感じでした。

お医者さんに助からないといわれて一念発起した老師様は、座禅を組んで奇跡的に病を克服されたとおっしゃっていました。本来、南禅寺の管長になられるほどのお立場でしたが、ご辞退され小さな寺の一住職となられました。

私は空手の修行のために山に入り、下山しては本堂で座禅を組んでいました。その合間は、老師様と庭のお掃除をしたり、お琴さんと買い物に行ったりと、何かのお役に立ちたくてお手伝いをさせていただいていました。皆様もご承知のように南禅寺は厳格な禅宗の寺院ですが、その質素で質実剛健の気風は私にとりましては内弟子時代の経験があったせいか、まったく苦になりませんでした。むしろ宗教という今までにない新しい環境に胸がときめいたものでした。

法要になりますと大勢の檀家さんが見えられます。南禅寺内の僧堂から雲水さんも法要の手伝いのため見えられ、寺院内のお掃除やお食事の支度をされます。禅宗の僧侶の皆さんは座禅や経を読むばかりではなく、茶道もされ、料理も本格的な精進料理をつくられます。肉類は一切つかわないのですが、ゴマを主にした滋養があって本当においしいものを作られます。

私も雲水の皆さんにまじって台所のお手伝いをしていました。そんなある日のこと、お米がないので私は老師様にその由を申し上げました。するとこういう問答になりました。「老師様、お米が足りません」

「米がたけぬのらばお粥にすればよい」
「お粥にするほどございません」
「お粥が炊けぬのら重湯にすればよい」
「重湯にも足りません」
「それならば白湯を飲んで座禅をさせていただきます」

老師様はご高齢になっても修行一筋のお方でした。その返答はまさに修業僧らしいお言葉であったと思います。

もうひとつ、これは空手の内弟子時代の話ですが、当時、30人ほどいた内弟子の寮では、食事当番というものがあって新入りは稽古にもいけずに食事の支度や寮内の掃除をしなくてはなりませんでした。ある日、新入りの私は、稽古に行けないことがちょっと悔しくて、一緒に食事係をしている先輩に愚痴をこぼしました。

「先輩、炊事も大切な修行であることは頭ではわかっているのですが、稽古にいけないのは皆から遅れをとるのではないかと私は不安でなりません」

すると先輩はこう答えられました。
「それならば皆が寝てから稽古をすれなよい」

以上の似たような二つのお話をいたしましたのも、稽古人というものは、環境のせいで稽古が出来ないということは決してないということを知っていただきたいが故なのです。また、稽古を続ける方法はいくらでもあるということもです。

稽古をする人間は、どのような環境にあっても稽古を続行します。上記の話の内容は、すべての内容に置き換えることができます。

「私は仕事が忙しくて稽古ができません」
「それならば仕事に行く前ににやればよい」
「仕事は早朝からありますからできません」
「それならば仕事が終わってからやればよい」
「仕事が終わるのが遅く、また寮に住んでますのできません」
「それならば皆が寝てからやれよい」
「私は仕事の都合で亀岡で稽古が続けらません」
「それならば京都に行けばよい」
「京都にいけぬのなら大阪にいけばよい」

稽古人は「忙しいから稽古ができない」と決していってはなりません。いったい忙しいというのはどういうことでしょう?忙しくても食事はとるでしょう。忙しくてもトイレにいくでしょう。忙しくても寝るでしょう。時間がなければ時間を作ります。

稽古というものが衣食住に匹敵するほど価値のあるものとする者こそ稽古人です。

「足を怪我をしたから稽古ができません」
「それならば腕で稽古をすればよい」
「腕も痛くて動きません」
「それならば指でやればよい」
「指も動きません」
「それならば目でやればよい」
「目も開きません」
「それならば心でやればよい」

稽古は、本当に稽古に精進したければ、どこでも、どんな環境でもできます。稽古人は稽古ができないと決して言ってはなりません。稽古を辞める時は、家庭の事情とか仕事の事情などという、稽古人として他者のせいにするような見苦しいことを決して言ってはなりません。潔く「私は稽古をするのがいやだから辞める」と言うべきなのです。

南禅寺の老師様も、寮生活を共にした空手の先輩もいまはこの世の人ではありません。
 私が幸せだと思いますのは、このように素晴らしい教えを身をもって体現された方々と出会ったということでした。彼らの言葉は当時は軽く聞き流していたものでしたが、いまとても心の中に輝いてよみがえってまいります。

皆様には稽古により心と体を磨き、みごと鎮魂帰神を成し遂げていただくことを願ってやみません。一人が帰神を成し遂げれば万人が救われるのです。そのための稽古です。



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