2011.12.27       

72話 「天帝の剱 〜紫微宮の世界へ」

北辰は太古の昔より宇宙の中心の星とされ、旅人達にとっては道標の星として無くてはならない存在です。古来、北辰は天帝のまします紫微宮とされ「天国を開く門」とも言われています。天帝とは宇宙創造神すなわち天御中主大神であり、私たちは大天主太神(おほもとすめおほみかみ)と唱え崇めています。

北辰は、紫微宮の名の如く紫色の光を放ち、それは地球に向かって降り注いでいます。紫の光は地上において物質を構成し存在させる高度な霊的なエネルギーです。人において、この光のはいる入口が上田、中田、下田の三つの丹田です。光を取り込む方法は、言霊の法則をもって行います。北極星を軸に星が回るように、私たちの意識と肉体の中心軸を北辰に定め、言霊の法則をもって宇宙とリズムを合わせます。宇宙のリズムとは古事記に記されている天地創造の神業であるアマノヌホコの旋回音である「シホ コオロ コオロ」です。シホは水火のことで、陰陽二元、または呼吸を表します。「コオロ コオロ」は渦巻く力で二つのものを一つに融合する様子を示しています。このシオコオロコオロの動作を正しく行わしてくれるのが「ホコ(火凝)」です。ホコが旋回を起こすとツルギになります。ツルギの本来の意味は「光り輝く」です。

さて、北極星に寄り添うようにして北斗七星がありますが、この星は「天帝の剱」という異名があります。私たちのツルギの先端(菱形)がさすものは「北辰」すなわち北極星です。私たちが剱をもち天に直立させたとき、私たちは北辰とひとつになっています。北極星と北斗七星の関係のごとくです。

北極星を中心に星々が回るように、木剱が螺旋運動を始めますと、木剱をもった私たちは宇宙とひとつになります。そして、螺旋運動に合わせて言霊の水火とともに、私たちの体内に静かに紫色の光が取り込まれていきます。

イエスは「人はパンだけで生きるのではない」と言いました。私たちは決して口から入る食べ物だけで命を長らえているのではありません。いくら肉体に十分な栄養がいきわたっていても、心が乾いていたり、飢えていたりしているのでは、その栄養は無に帰します。逆に、口から入る食べ物が無くても、心が満たされていれば空腹感は覚えず、体はふくよかにして相変わらず元気にしていられます。

紫微宮の光エネルギーは口から入る食べ物を超えた、霊的にも体的にも非常に優れた栄養源です。この光を受け体内を巡らせることにより、心の闇は晴らされ肉体に計り知れない健康をもたらします。そればかりか心に巣くう邪霊が掻き消され、過剰な食欲や怠け心、色欲や金銭欲、権力欲などの物質への異常な執着心がなくなります。

これを継続させることにより霊的感性が高められ、周辺に様々な奇跡が起こりだし、やがて神(天帝)の存在を認め得るに至ります。剱を通して天帝から来た光とつながり、それを受けて体に満たすのですから天帝と同体すなわち「鎮魂帰神」がおこるのは当然のことです。

「言霊の助けによりて大神の御心を覚り」と祝詞にありますが、まさにアオウエイ(天地結水火)の言霊の力で神と一体となるのです。天帝〜神は言霊とともにあり、言霊は光であり、光とは愛です。私たちの剱がこの「天帝の剱」であることを誇りに思います。今後、言霊の助けを借りながら、より深い北辰〜天帝への道を研鑽してまいりたいと存じます。

すでに私たちは次から次へと新たな課題が与えられています。技においても、より多面的な技が現れてきています。今の技はまだまだ平面的なもので本来の姿ではありません。「球体」とならねば本来の姿ではないのです。具体的に申し上げますと、天帝の剱は直線の動きがまったくない完全に螺旋運動の技です。たとえば「解」を打つのに斜め下へ、「合」を打つのに真っすぐ下へといった動きではなくなります。クルクルと完全な旋回のまま、剱が打ちと受けを同時に存在させつつ動くのです。

私自身はすでに行っていますが、これをどのように皆様に理解していただくか私は現在頭を悩ませています。いまの技は誰に教わった訳でなくひたすら「天津金木、天津菅曾、天津祝詞」にそって稽古を行い、あぶり出した動きだからです。前例があれば容易いのですが、そうではないので思った以上の作業になっています。

表面に現れる動きはまったくの旋回運動です。見た目に「凝解分合動静引弛」の八力の区別がまったくつかない状態となれば正解といえます。

解は凝に、凝は解に帰りながら回り続けます。
 引は弛に、弛は引に帰りながら回り続けます。
 分は合に、合は分に帰りながら回り続けます。
 動は静に、静は動に帰りながら回り続けます。

これが理解できれば75剱そのものも変わります。動きがよりシンプルになるのです。やはり見た目はスクリューのように綺麗に旋回しているだけです。剱は車のタイヤのようにひたすら回り、腰はエンジンのごとく複雑な構造をもって効率よく動き続けます。しかし、本人は言霊の技の何をしているのかを理解しています。呼吸と丹田の働きが理解しているからです。丹田が正確に前後上下左右に正確にはたらいているからこそ、いま自分は何をしているかを知るのです。腰ができていない方には真似のできない技です。

言霊剱〜天帝の剱が要求するものがどういったものなのか、いまの私にはまだまだうまく説明できませんが、稽古人の皆様とともに、少しずつ与えられた課題をクリアしていき、必ずや本来の天帝の剱の姿を皆様と拝みたいと思っています。

最後に、以下の霊界物語の引用にもあるままに和良久の技は成り立っていますことをお伝えさせてください。

 和良久は水火に合わせて両手、両腰が右旋、左旋しつつ、火〜左は横に、水〜右は縦と示されてあるごとく稽古を行い、なおかつ現実的に実践可能な技を展開しています。

和良久は霊界物語を夢物語ではなく、本当の手引書として受け取り、実際の技に活かしているのです。以下の文も読む限りにおいてはまったく難解きわまりない内容ですが、これを実際に木剱を握り五体を通して演ずるとその意味がまったく理解できるに至るのです。

私はまことの教えとは理念のままで終わるものではなく、形になるもの、つまり実践できるものをいうのではないかと存じます。これを霊体一致、または霊主体従といいます。

<霊界物語 第73巻 子の巻  紫微天界 水火の活動より>

大宇宙間に鳴り鳴りて、鳴り止まず、鳴りあまれる厳の生言霊ス声によりて、七十五声の神現れ給ひしことは、既に前述の如し。スの言霊は鳴り鳴りて、遂に大宇宙間に火と水との物質を生み給ふ。

抑々一切の霊魂物質は何れもスの言霊の生むところなり。
 而して火の性質は横に流れ、水の性質は縦に流るゝものなり。
 故に火は水の力によりて縦にのぼり、又水は火の横の力によりて横に流る。

昔の言霊学者は火は縦にして、水は横なりと言へれども、其の根元に至りては然らず、火も水なければ燃ゆる能はず光る能はず、水も亦火の力添はざれば流動する能はず、遂に凝り固まりて氷柱となるものなり。

冬の日の氷は火の気の去りし水の本質なり、此の理によりて水は縦に活用をなし、火は横に動くものなる事を知るべし。

天界に於ける光彩炎熱も内包せる水気の力なり。

紫微天界には大太陽現れ給ひて左旋運動を起し、東より西にコースを取るのみにして、西より東に廻る太陰なし。

炎熱猛烈にして神人を絶対的に安住せしむる機関とはならざりしかば、茲に太元顕津男の神は高地秀の峯にのぼらせ給ひ、幾多の年月の間、生言霊を奏上し給へば、大神の言霊宇宙に凝りて茲に大太陰は顕現されたるなり。

而して大太陰は水気多く火の力をもつて輝き給へば、右旋運動を起して西より東にコースをとり、天界の神人を守らせ給ふ。

天之道立の神は大太陽を機関として、凡百の経綸を行ひ給ひ、太元顕津男の神は大太陰を機関として宇宙天界を守らせ給へば、茲に天界はいよいよ火水の調節なりて以前に勝る万有の栄を見るに至れり。


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