2012.07.09 

                 第80話 「心に隠れた神」
  1. 覚醒

     人が大きな肉体的衝撃を受けた場合、それをきっかけにある種の覚醒を迎える場合がある。病気や事故で瀕死の状態におきる臨死体験などもそうである。

     ほかならず、武道においても、壮絶な修練の末、肉体の限界点に達したときに、人はよく霊的な体験に遭遇することがある。普通の意識からより深い意識への扉を開くのだ。

     これは虫が変態をとげ、大空へ飛び立つのと似ている。精神と肉体に、思いもよらぬ負荷が加わったとき、何かが突きぬけるのだ。例えば、宇宙に向かって放たれたロケットが、地球を離れる時にも似た感じではないかと思う。

     宗教的には、神の存在を無条件で認め、本当の自分に出会う瞬間である。これが覚醒だ。覚醒は、眠っていた今までの自分から抜け落ち、「本来の自分に目ざめた状態」といえる。

     他の分野と違って、武道ではこの覚醒が頻繁におこる。

     覚醒後は、その技や考え方は常人の域を脱し、超人的な能力を発揮する。

     過去の例をみると、覚醒の度合いは宗教よりも、武道に多い。これは特筆すべき事柄である。

  2. 武道と宗教

     古来、宗教的祭祀による鎮魂法よりも、武道修行における鍛錬のほうが覚醒の度合いが多い。これは、法則にかなった五体をもっての全身の技の修練と、命をかけた決意がともなうゆえであろう

     単に思念の世界に漂うことなく、実質的な体験を通して得た覚醒の効果は、多くの人々の前で目に物見せる技をもって、その進歩の度合いを証明することができる。

     時折、武道が、精神修行の一貫として人々に採用されるのは、誰でもが武道の修練を積むことにより、まったく信じ難い体験を積む機会が訪れやすい状態をつくるからであろう。

     武道は、宗教の修行のように、ひたすら静かに「その時」を待つような受動的なものではなく、こちらから「彼の世界」に勇往邁進し飛び込んでいく、いわば積極的鎮魂といえる。

     武道〜正確には「アマノヌホコの道」は、宗教というものが生まれる以前にあった。

     よく宗教は武道に深い影響を与えたというが、それは違う。武道が宗教に強く影響を与えたというのが本当である。ゆえに、こういった霊的作用は当然のことといえる。

     鎮魂帰神には、自感法(自力で感応の域に達する)と他感法(他者の助けを借りて感応の域に達する)の二種があるが、武道は、この二種の方法を同時に行うものだ。ゆえに効果は確実、かつ速やかである。

     武道といっても、いまの世に出回っているアメノヌホコの道ではない。よって、鎮魂に至ることなどまったく及びもつかない。ここでいう武道とは、天真正伝と言われる、天から授かった技をもって修練する天啓の武道のことを指す。

     本来の武道は、戦いによる修羅場において人為的に練られ、工夫されて出来た武道ではなく、神直々にくだされたものである。

     武道は、天啓のものゆえ、言霊の威力をストレートに表現する。

     すなわち、武道とは言霊の体現であり、「言霊すなわち武道」なりと断言できる。

     ひたすら、神の身許に至ることを願いつつ、人為的工夫を加えない、法則に沿った稽古を繰り返す。やがて、道元禅師のいう「心身脱落」が起こり、仏や神に近づくことを得る。

  3. 火と水の関わり

     さて、鎮魂は正しく順序を踏んで体験を積むことが大切である。これを「布斗麻邇御璽(言霊の法則)」で説明する。

     万物がこの世に存続できるのは「○〜水」の中に「・〜火」があるゆえである。

     水は物質の総称、火は精神の総称である。人で言えば、肉体の中に魂があるということである。

     この水が、何かの外的作用で消えた場合に火を留めるものが無くなり、火は外部へ抜け出す。つまり、肉体が機能を停止したとき(八力を失ったとき)、精神(一霊四魂)はもとの世界に帰っていくのだ。

     水である肉体が活動をとめたとき、心は自由を得る。

     眠っているときに起きる幽体離脱なども同じだ。

     また、うつらうつらとした時に訪れる霊的現象も同じだ。

     これは小さい人のことに限らず、自然界でも同じである。

     火は陽、水は陰。

     昼は陽、夜は陰。

     霊的現象は、昼が過ぎて夜の帳が降りる狭間のときが起きやすい。

     つまり、この世界が陰(水)となって暗くなるとき、「○」に「・」の図の法則に則って、闇(水)に乗じて火(霊)が現れやすい状態となる。人は闇を見るとき、己の心を写す。

     さて、この水と火の関係が分かると覚醒の話しがしやすい。
     
     人は心を見つめるとき体をくつろがせる。半分眠ったような状態をわざとつくるのだ。  

     そうすると心が表面化してくる。体をゆるめると言うことは心のはたらきが活発になるのだ。

     よく偉業をなすのに「無になれ」「無心の心だ」と言うが、無になると言うことは、確かに潜在的な心理が働きだすが、心に隙も生じやすい。

     心に隙が生じれば魔が差しやすい。分かりやすく言えば、体は家である。そこに心という主人が住む。

     心が無ければ、そこは空き家となる。何も思わず、心を空虚にするということは心に「空き家」を作ることと同じである。空き家があれば空き巣(悪魔、邪心)が入る。このように法則に従って考えれば、意識は消すものではない。鎮めるものだ。

     無になるのではなく鎮めるのだ。

     むしろ、静まった意識をもって、体を千変万化に用いるのだ。

     まず、何を行うのか、それは何のためにやるのかを考えに考え、思いに思う。

     極まれば鎮まる。

     「○」だけではだめだ。「○」に「・」が入らねばならない。

     「○」は現象、「・」は精神。

     森羅万象ことごとく、すべてに霊魂が宿る。

  4. 心にいる神

     人とは神が生み出した現象。そこに神の一息(霊魂)が埋め込まれて、私たちはこの世に誕生した。人とは、霊止(ひと)とも書く。神の霊が止まるところだ。

     「神人合一し無限の権力を発揮する」という言葉があるが、わたしたちはもともと神人合一して生まれてきた。すでに神は私たちの心の中にいるのだ。

     その、自分の中にいる神の姿を見出すのが、鎮魂である。

     魂を鎮めれば、神に出会えるのだ。

     いくら外を探しても神はいない。神は心の中にこそ存在するのだから。

     その神は、言霊として、わたしたちとともに活動をする。

     昔、神々は自分たちの力の源である言霊が人々に悪用されることを恐れ、それを隠す相談をされた。

     「これを人に知られぬように遠い空の上に隠そう」

     「いや、やがて人は遠い空の上までやってきて見つけるだろう」

     「それでは深い海の底に隠そう」

     「いや、やがて人は海の底までやってきて見つけるだろう」

     「それでは人の心の中(意識の奥)に隠そう」

     「それがよい」

     神は知っていた。

     人にとって一番見つけにくい所とはおのれの心の中であることを。

     私たちが心を鎮めて意識の奥に入ると、そこには神が隠した秘密の力が眠ってる。

     その隠された力を見出すことが稽古であり、その力に出会って本当の自分に目ざめる ことを覚醒という。


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