2013.03.18

                 第94話 「求める者」

 人は悩みをもつ生き物です。悩みはいつか晴れるものですが、しかしまた、新たな悩みが私たちの胸の中を被います。物質世界に肉体をもって住む以上われわれの悩みは尽きぬものです。

 「私はこんなひどい目にあっています。一体どうしたらいいのでしょうか?」こう問われても、あらゆる問題の答えはすでに先人達が解いてます。しかし、その答えの見出し方は千差万別で、また人により解し方は異なります。

 ある人は空に浮かぶ雲を見て「ああそうか」と手を打ち、ある人は足元に咲く小さな花を見て「うん」と納得します。

 偉いといわれる人に何時間もこんこんと諭されて、やっと分かる人もいれば、子供の無邪気なひとことで得心する人もいます。また、同じ言葉でもAさんが言うと「ふん」と鼻でバカにするのに、Bさんが言うと「なるほど」と感心します。

 これは、同じ食材でも、風光明美な場所にある高級旅館で高価な器に盛られているのを食べるのと、ほこりが飛び交う工事現場でアルミの弁当箱に詰め込まれているのを食べるのと同じです。

 答えを見出すのには「時」「処」「位」が自分の心情とうまく合致している必要があります。

 常に求めていると、ひょんなところで「ああそうか、これだ!」と突然答えに出会います。イエスのいわれる「求めよされば得られむ、叩けよされば開かれむ」ということです。

 釈迦は明星の輝きをみて悟りを得たといいます。私たちが明星を見ても意味がわかりません。要はそれまでに経てきた過程が、ある現象をきっかけにして一気に氷解するようなものです。これは扉を開くカギと同じです。

 すべての悩みに対する答えは自分の中にすでにあります。ただ、それを誰か信頼のおける人に言葉に出して言ってほしいだけのことなのです。

 人に言われずとも自分で見つけることのできる人は幸いです。神は遠い空の彼方におられるのではなく、いつも自分とともにいることを知ることが信仰なのではないかと思います。

 特定の宗教をもっていても信仰をされてない方は多いものです。その逆に特定の宗教はもっていませんが篤い信仰心をもった方がおられます。そして、その両方をお持ちの方もあります。

 宗教をされていても信仰心のない方とは、口では神様、神様と言いながら、むしろ神様を遠くの存在に追いやって神の存在を自分の中に感ずることができずにいる寂しい方です。

 これだけ拝み、これだけお布施をしているのに、ぜんぜんお陰がないと愚痴をこぼし、その不平不満を宗教者という立場があるので、口に出せずにもんもんとして日々を暮らしています。それらマイナスの思いがよけいに災いを呼び込むことになり、常に病や人間関係に苦しんでいます。

 次に、特定の宗教はもっていないが信仰心の篤い方というのは、この世界には何かこの世を動かす存在がいて、われわれの運命を左右しているから、いつもそれとつながっていることが大切だと考える方です。

 こういった方々は神仏を気や宇宙エネルギーなどと呼んでおられ意識を高くもつことを喜びとされています。先の宗教をもっている方に比べ罪が生ぜず、毎日を楽天的にお過ごしになっておられます。

 キリストや釈迦に代表される宗教というものは、この世におけるすべての悩みに対する答えをすでに明瞭に、はじき出してくれています。それは心の奥底の世界にまで踏み込み宇宙の真理を解明しています。おおよそ人類が生きているうちに遭遇するあらゆる悩み事の答えはもう用意されているのです。

 いま世界には無数の宗教が興っていますが、結局すべて釈迦やキリストの言葉を変えたに過ぎません。真理はひとつのコアのようなものであり、そのコアは普遍なのです。

 「古来万巻の書が残されているが、そのどこに自分の悩みに対する答えがあるのか」と思われるでしょう。それは最初のページの出だしにあるかもしれませんし、読み進むうちに次第次第に心が和み、あるページのある言葉で、はっと気付くかもしれません。

 これは先に申しましたように、その人相応の個所がありますので、それこそ答え方は百人百様です。よく「私の悩みは誰にも理解できないんだ」と人は言いますが、まさにその通りです。あなたの悩みは誰にも理解できませんし解決もできません。その問題は人が解決すべきものでなく、自分がクリアすべき問題なのですから。

 求めれば答えはそこらじゅうに転がっています。求める者にとっては、ドブの中にも真理があるのです。求めない者にとっては、光り輝く光明世界にいざなわれても真理を見つけることができません。

 求める者は常に神とともにあり、小さなともしびも大きな太陽の輝きに見えます。しかし、求めない者は、神に出会っても神を認めることができず、悪魔がついているのに、その影を知ることができません。太陽の光輝く昼間でも暗黒の闇の中にいるように思えるのです。

 求める者の欲は神の計画を遂行するという大きな欲をもっています。このような欲をもっている者は、神は計画実現のためにその者に病も災いも近寄らせません。

 求めない者は自分の欲を満たすことで精いっぱいです。これが執着というものです。釈迦のもっとも戒めるべき要因のひとつです。執着は物欲にからむもので、私利私欲からくる餓鬼道へ陥り、いわゆる生きながらにして我利我利亡者となります。

 求める者は病にあってもその心は愛と感謝に満たされ、その思いが天使の守り会い、天使の守護によって痛みさえ訴えず安穏として心安く余生を過ごされます。そして命尽きた時は必ず天国に入られます。

 しかし、求めぬ者が病にあうと一層不平不満が増し「なんで私ばかりこんな目に合うのか」と口に出る言葉は恨みごとばかりとなります。このような人には天使の守もなく、痛みが去ることなく命尽きればそのまま地獄へと落ちます。

 私もこの年になりますと、図らずも人から相談事を受けるようになります。しかし、その返答内容は結局、神典にある内容や宗教書にある内容の一説の繰り返しに過ぎないことになります。いわゆる「こうおっしゃった」「こう書かれている」でしかないのです。

 「私はこんなひどい目にあっています。一体どうしたらいいのでしょうか?」

 こう問われたら、仏典の言葉を借りれば「一切の執着を去れ」の一言でしょう。

 聖書の言葉を借りれば「主とともにあれ」でしょう。神道でいえば「禊(みそぎ)」を行うことでしょう。

 「病になって苦しんでいます。何か直す良い方法がありますか?」

 これは愚問の一つです。この問い方は信仰者は行いません。当然のことですが、まず病院に行くことです。医者も神が用意された専門分野です。

 そこで信仰者が行うことは、まず病気になってわが身を損なわせたことを神様にお詫びし、次に自分の心と向き合って病になった原因を見つけます。そしてあらゆる要因に対して謝罪し、自分の周囲の人や物に愛と感謝をささげます。

 そして、神の導きのもと、よい医者に出会ってよい処置がなされることを祈願することです。そういった人事を尽くすうえで神は奇跡をみせます。大いなる他力を得ようと思えば大いなる自力をはたらかせることです。これは鎮魂帰神の術の原理です。

 人と生まれた以上、病はつきものです。病は適切な治療と祈願でいったん影をひそめますが、基本的に病というものは消えるものではありません。まず人は病をする生き物であることを知ることです。そして死は終わりではないということを知ることです。病や死を最悪の出来事とするから人生がはかないのです。

 いまだかってこの地球上に生を受けた人類の中で、どんな聖人、偉人であっても病を消した方は存在しません。釈迦でさえ病で亡くなりました。同様に、神といわれたあらゆる宗教の開祖たちでさえも病で亡くなりました。

 ただ、この方々およびその方々を信じる信仰者たちは、病となっても病によってもだえ苦しみ、人生における目的を果たせなかったということはありませんでした。

 みんな病にあっても病人らしくなく、むしろ病を機に一層の光彩を放って周囲に喜びと感動を与えて生き抜いた奇跡的事実があるのです。そして死したのちも、その生きざまは私たちの中にいつまでも感動とともに生きているのです。これにより彼らは永遠の命を得たということになります。ここが一般の病人さんと違う点です。

 本当の祈りの生活にある信仰者は病になっても決して愚痴をもらすことなく、決して嫉妬心に身を悶えさせることなく、誰に対しても決して恨みを抱くことはありません。

 その口から出る言葉は感謝と喜びに満ちた言葉であり、その行動は礼儀節度ある行動であり、その思いはいつも神とともにある天界の荘厳な風景なのです。

 <旧約聖書 詩篇 第91篇>

 いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。

 主はあなたを狩人のわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。

 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。

 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。

 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。

 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。

 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。

 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。

 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。

 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。

 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。

 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。
 彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。

 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。
 わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。

 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

<釈迦の言葉>

 愚かな者を道ずれとするな。
 ひとりで行くほうがよい。

 孤独に歩め。
 悪をなさず。

 求めるところは少なく。
 林の中の象のように。

 身について慎むのは善い。
 言葉について慎むのは善い。
 心について慎むのは善い。

 あらゆることについて慎むのは善いことである。
 修行僧はあらゆることがらについて慎み、すべての苦しみからのがれる。


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