第96話「天津金木 4」2013.04.29
<型稽古の意義>
昭和天皇が終戦時に皇太子(現天皇陛下)に宛てられたお手紙があります。
当時の軍部の勇み足をいさめるお言葉とともに、そのお手紙の最後にはこう締めくくられているのです。
『戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである』
陛下が戦争の終結を覚悟なさった理由が「三種の神器を守る」ということと「日本民族の種を消さない」ということだったのです。
三種の神器とはご神霊のご威徳をあらわす「玉、鏡、剱」の三つのことです。この神器を守り活用するのが日本民族の使命です。
玉とは霊すなわち宇宙の精神(天津祝詞)、鏡とは体すなわち宇宙の姿(天津金木)、剱とは力すなわち宇宙の力(天津菅曾)を表現するものです。
この神器とそれを守る民が地上から絶えたら世界がつぶれることを危惧され、終戦をご決断されたのです。
古来より日本は型の国だと言われます。これは日本に興ることは世界に写るということです。
世界の平和のために尽くすというのが日本民族の天命です。このような三種の神器をご神体とする日本に住む私たちが、良い型を出せば世界の平和につながるのだということを忘れてはなりません。
私たち稽古人は型を重んじて日々練磨を続けています。
型は、たとえば城を造るに際して、まず図面を描き小さな城の模型を造るようなものです。
絵や模型は具体的な形になっていき、やがて思い描いた通りの城が眼前に現れます。
人一人が行う小さな型でも、それは積み重ねることによってやがて大きな型となって現れます。
また型は、大きなことを成し遂げるに際しての予行演習のようなものです。
常に大局を思い、想定して型を練っていれば、いざという時に慌てなくて済みます。
そして、型をもっていれば迷うことがありません。型のもつエネルギーが答えをだしてくれます。
どう言おうか、どう行おうか、どう考えようかなどは型にあてはめていけば不思議と解決していくものです。
型は神の姿を表現し、神は型によって顕現するのです。
私たち和良久は天津金木、菅曾、祝詞という型をもっています。私たち稽古人はこの型を演じるたびに神を見るのです。
さて、型は何も武道の技だけのことではありません。型は日々の生活の中にもあります。
寝る、起きる、挨拶をする、衣服を着ける、食事をする、学ぶ、教える、怒る、笑う、哀しむ・・・すべてが人類が永い年月をかけて、これが最も効率のよい動作だとして築いていった型をもっています。その型を守ることによって人々はお互いを思いやり譲り合って生きていけます。
また、型は今はどういう時かを知り、場所や自分のおかれている立場をわきまえることを学びます。
たとえば、昼になすことを夜中にやれば周囲に迷惑をかけます。これは時を間違えています。
サッカーのグラウンドでバスケットボールをするのは場所をわきまえていません。
オーケストラで静かにピアノの演奏が表に出るところでバイオリンが高い音をたてるのは役割が違います。
型は、場の空気を読んで行動に移すという、時処位を知る学びでもあります。
さがらなければならないところで、前に出るとぶつかります。逆に前に出なければならないところで後ろにさがるとチャンスを逸します。
すべてにはそれをなすべき時間があり、それをなすべき場所があり、それをなすべき立場があります。そして、それによってこの世界にとって最も適切な聖域ともいえる中心軸を自分の中に発見するのです。中心軸の発見により人は鎮魂状態にいたり、安心立命を得ます。それを学ぶのが型です。
言いすぎてはならず、言わなさ過ぎてもならす。
やり過ぎてもならず、やらなさ過ぎてもならず。
思い過ぎてもならず、思わなさ過ぎてもならず。
すべての中庸を知ることはとても難しいことです。私たちには一体何が行き過ぎなのか、躊躇し過ぎなのかわかりません。本当の「中」とは神のみぞ知ります。いわば型の稽古によって神の領域である「中」を追求していくのです。
私たちが生きていること、そのものが型ならば、私たちは良い型をだせばそれはきっと未来に現れます。
未来の人類の幸福のために、今どんな小さなことでも型と思って精一杯生きていくのが私たちの務めではないかと存じます。
型の意義を知ると、掃除ひとつにしても「何に向かって何を思って掃除をするか」でエネルギーの注がれる場所が変わってきます。
私たちは稽古後に拭き掃除をいたしますが、それはこの地上世界の汚れを綺麗に拭き清める、大神様のお身体を拭き清める、そして自分自身の魂を拭き清める・・・と考えて行わせていただくことによって「たかが掃除が」といわれそうなことでも尊いご神業の一つとなるのです。