2013.07.30

                第102話 「技の変遷」

 和良久体術の動きは、和良久剱術の動きに準じて組み立てられています。

 例えば、剱術の解、弛などは、体術においては、解は右手横面打ち、弛は左手横面打ちとなります。

 体術における打ち技は、たんに手を振って打つのではなく、体軸の旋回が重要になります。

 基本は、反動圧という反作用の力を用います。これは、右に行くには左へ、上に上がるには下へ、前に行くには後ろへといった具合に、いったん反対方向に振って動く力の用い方です。この反動圧を体の軸の旋回によるのです。

 手の技をやって、納得いかない場合は剱の技をやって技のコツをつかみます。

 また逆もあります。剱の技がいまひとつ理解しにくいときは、手の技を行ってみると解決する場合があります。

 このように、手と剱の動きを交互に比較し合ってみて、ひとつの技を完成させます。

 剱で打つときは手で打つように、また手で打つ時は剱で打つように稽古をしてください。

 すべての剱の技は、すべて手でも出来ます。

 手の技はまったく自由なはたらきをみせる未知の技を予感させます。

 しかし、一方、手技は危険です。なにが危険かといいますと、手技は自由がはたらくゆえに気をつけないと技が荒れてしまいます。

 何でもあり、勝てばいいという勝負至上主義に落ちいってしまうという畜生道に陥る危険性があるのです。

 手技は、剱の技によってコントロールされているうちは人間的な理性の範囲を越えることはありませんが、剱をつかわなくなったとき、まるで獣のような動きをし始めます。

 剱の稽古は、心身を統一させ集中力を高めます。その感覚を持続させたまま素手の技に取り組むと、技は法則性を帯び、威厳ある輝きを放ちます。

 獣は道具を使いません。剱の稽古はより人間らしくあるための戒めです。獣のような肉体的な強さだけではなく、人間的な心の強さを培うことが大切です。

 剱の技に長けた者は、素手の技に長けています。素手の技が強い人は、剱の技も強いのです。これは全く比例しています。

 和良久剱術と和良久体術の交互の稽古により、お互いのパワーを高め合うという相乗効果があるのです。

 いまは、体術の動きは剱術のごとくとして、剱そのままの打ち技に変えて稽古をおこなっていますが、実際の体術の技は「打ち技」「投げ技」「絞め技」など多岐にわたります。

 詳細に申し上げますと、今おこなっています体術の稽古が「剱手(つるぎて)術」といいます。手を剱のように使うからです。

 そして、手首や胸などをつかんでくるのを、ひねりを加えて投げるのを「柔術」、そして剱手ではなく、手足のすべての接触箇所を武器に変えて攻撃を加える術を「空手術」といいます。

 技術の変遷ついていえば以下のようになります。

 武道和良久→和良久剱術→和良久体術

 また、さらに和良久体術は、剱手術→柔術→空手術と裂き分かれます。そのどれもに介在するのが「気」です。

 気は体を動かすエネルギーの源泉です。

 気がはたらかなければ体は動きません。

 和良久気術の稽古は、これら剱術や体術になくてはならないエネルギーを培う大事な稽古ということになります。

 そして、武道和良久は気術をより細やかに、よりパワフルにするための稽古です。

 武道和良久は創造主の気に出会うための稽古です。

 このように、和良久を行ずることは武道の歴史を遡っていくことでもあるのです。

 武道の歴史は、宇宙創造の歴史でもあります。

 和良久は、天之沼矛を用いて「ますみの鏡」「水茎文字」など言霊の最奥秘密を顕現した武道です。今後、皆様とともに、ますます和良久のもつ驚異の威力を体感していきたいと存じます。

 体術におきましても機を見計らい、柔術や空手術の課程も設けます。

 また、剱術の延長として「棒術」の課程も設けます。棒術の動きは左右対称です。剱術と体術を合わせたような動きが棒術なのです。

 こんなに多くの武術を修練して、和良久がどっちつかずの中途半端な武道になってしまうのではと御心配されるかもしれませんが、まったく案じることはありません。

 なぜなら、私たちには75声の言霊の法則を軸として稽古をすすめていますので、方向ははっきりとしていています。いつでも元に復せ、またいつでも広げることが可能です。

 稽古人の皆さんには、こういった様々な武道稽古の経験を通して、すべての武道のルーツとは本来「アマノヌホコ」にあるのだということを知っていただくことになります。
 
 また、その理論は言霊にあるということも実証されることになります。

 皆様には、すべてを稽古しなければならないという重責をもたせるつもりはありません。この中から、自分に合った専門分野を選択していけばいいのです。

 例えば、和良久剱術を専門にするとか、和良久気術を専門にする、また空手術を専門にする者とか、棒術の専門家になるとかといった具合にです。

 以上のような、様々な稽古は、実は私が若い時に行っていた稽古なのです。

 私は武道とは、一つの力が万の技を生み出すものであると承知しています。

 剱を使うも素手をやるのも同じ力の使い方であり、それはあらゆる技に応用され変化するものなのです。

 武道和良久は、幹です。そして、枝のごとく気術、剱術、体術があり、葉のごとく棒術、柔術、空手術などがあるのです。

 いつかそういった枝分かれではなく、武道和良久一本の稽古だけが出来る時代の到来を私は夢見ています。しかし、いまは残念ながら、世がまだ和良久を理解できる段階までに至っていません。

 稽古を楽しみましょう。
 技を極めましょう。
 そして、広い世界に打って出ましょう。

 日本武道「和良久」は、世界を舞台に国々の求めに応じ、臨機応変の技を伝えていきます。私はそれだけの懐をもった武道和良久をとても誇りに思っています。

 言霊の法則がきっと世界を変えます。しかし、言葉だけではなく、五体をもって体当たりをしていかなければ壁は破れません。

 また、われわれも壁をつくることのない、透明な集まりでなければばりません。

 アメリカ、イタリア、イギリス、ドイツ、ベルギー、スイス、セルビア、ギリシア・・・。

 まだまだ稽古の輪は広がっていくでしょう。

 それが、たとえ何万人、何億人になっても、個を尊重する集いでなければなりません。

 私は、それぞれのスタンドプレーから自然に生じるチームワークが理想だと思います。


「ますみの鏡と天之沼矛をこの世に出すために生まれてきた」とさえ、いまは憚らず言いきれるほど、私はこの技に命を賭けています。

 和良久や前田の名はどうでもいいのです。

 封印されていたこの言霊の法則を世に出しきることが大事なのです。

 マサチューセッツ工科大学の石井裕教授のお話の中で興味深い言葉がありました。「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は誰も打てない」「新しいことを本気で進めるのであれば、そこまで徹底すべきだ」

 今後社会はますます混沌とした状態に陥り、国と国は一触即発の様相を呈し、人と人とは平気で傷つけ、また奪い合うなど大変な世の中となっていきます。

 志ある者は、もう自分を押し殺すことなく、いまこそ潜在する能力を思いっきり開花させて行動に出るべき時期にきたのではないかと思います。

 誰かがやるからと待つのではなく、自分がやるのです。

 皆さん一人一人が「わたしがやる」と宣言をして行動に出るのです。

 出る杭になったら打たれるから大変だと、周囲に異常なまでに神経質になり、怖々生きている間はありません。

 何のためにこの世に生を受けたのかを思うべきです。

 どうせやるなら、誰にも打てないほど出過ぎた杭となりたいものです。

 もしその志が正しいものであるならばきっと神が加勢するでしょう。

 正しくないものならば壊されるまでです。

 要は覚悟の問題です。

 何事も手をこまねいてうじうじしているより行動です。

 やるだけやって、それも精一杯やって命果てるならわたしは幸せだと思います。

 皆さんの人生は皆さんの自身のものです。

 誰にも皆さんの熱い衝動を抑えることはできません。

 お互いに正義が勝利することを真剣に祈り、納得のいく人生を選択しましょう。



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