第103話 「言葉ではなく言霊で」2013.08.19
いまの世の中は、保身のために他を排除する鋭角波動に満ちています。
人が話した悪気のない、何気ない言葉の、それもほんの一言の言葉尻のみをとらえて、ここぞとばかりに相手を非難する人がいます。
「・・・と思います」と意見を述べると、「思いますとはなんだ、思うだけではだめだろうが、はっきりしろ!」とか。
「私は、そのことについて否定はしていません」というと「否定はしてないが、肯定もしてなんだろう」とか。
悪意なく書いた文章の一節が、自分に対する非難だととらえて、訴える人もいます。
まったく、何を言っても噛みつく方がいます。これでは話にも何もなりません。
天国の話し合いの場というものは、議論を戦わせることではなく、互いに理解することを前提に、言葉ではなく、息を通わせる場です。
それは言葉を用いず、言霊をもって話し合うゆえに融和が発生するのです。
言霊は、省みる心を中心とし、愛親勇智の四魂をもたらす神界の扉を開く鍵です。
言霊を知る者は、内なる心を大切にします。
言葉だけを語る者は、内を隠し、外を飾ります。
さて、私にとって和良久の稽古人どうしの集いは楽しいものです。
稽古人は言霊を鍛錬しているゆえ、相手の息を読むことができます。そんな道を求めて一心に歩む者たちだからこそ、最初から、理解し、許しあえる雰囲気に満ちています。
たとえ、口先上の言葉の選択を誤っても、誤解を招くことなく、その本意を理解できます。
しかし、言霊を知らぬ者が一人でも混じると、言葉の中の形しかとらえることができぬゆえ、その本意を覚れず、「貴様らはなんということを言うのか」と席上で怒号します。
言霊を知らぬ者は、人の心を読めぬゆえ、やたら資料をそろえて机上に山積みし、それを見て確認しながら話を進めます。また、人の言うことを信用できぬからと、相手の言ったことをテープで録音をします。
頭から信頼関係を築こうとせず、はなから融和を望まず、己の意見をおしつけることが目的というような、弱肉強食の世の中となりつつあるのは寂しいものです。
私たちは、会うたびごとに懐かしくありたいものです。笑顔で会いたいものです。馬鹿なことを言っても許せる関係でありたいものです。話し合いの中で常に笑いが存在してほしいものです。
そして話をするときは、心を豊かに、己をむなしくし相手を思いやる心をもって話し合いたいものです。そうすれば、いかに雑な言葉でも、悪気がないことを覚って、本当の真意を理解し心から笑えるはずです。
意見を出すときでも、こんなことを言うとだめだろうなと、言う前から断定しないことです。「駄目でもともと」の気持ちで話しましょう。
「顔は笑顔で、言葉は明るく」が基本だと思います。
また、影で人の悪口を言わぬこと、思わぬことも言霊を学ぶ者の基本です。
当然のことながら、稽古において刻苦研鑽はいけません。稽古は楽しく行いたいものです。
75声の言霊は螺旋波動です。螺旋は笑いの渦です。
言霊を行ずるとは、笑いの渦の中に五体を投じることと同じです。
全身を喜びに充ち溢れさせ、周囲を感動の渦に巻き込む作用こそ言霊剱です。
笑いや喜びは、免疫力を高めます。
感動は心を豊かにします。
耐えがたいようなストレスと、さまざまな病気や怪我に遭遇することの多い世の中です。 しっかり免疫力を高めて、ストレスや病気や怪我に負けない人生を歩みましょう。
言霊は人生を健康で楽しく歩むことを教えてくれます。