第108話「神への直訴(2)」2013.11.04
旧約聖書に「ヨブ記」というものがあります。
神と人とが向かい合った壮絶な物語です。
・・・ヨブという、悪を避け善に生きる信仰深い人がいました。
そんなヨブに、神はサタンと計らって試練を与えます。
間もなくヨブに災いが訪れます。彼の全財産をはじめ、愛する人々すべてを失い、自身にも重い病苦を負わせられます。
絶望にあえぐヨブに三人の友が見舞いますが、彼の変わり果てた姿に驚きます。
ヨブはあまりの苦痛に息も絶え絶えであり、わずかに語ることを得るだけです。
その状態のヨブに向かい三人の友は、「そうなったのは因果応報だ、神の慈悲だ、悔い改めねばだめだ」などと、ありとあらゆるもっともらしい話でヨブをさとします。
しかし、ヨブの人生においてまったく悪行はなく思い当たる節が見出せません。
それでも、三人は執拗に改心を迫り、ヨブを攻め続けます。その内容はいにしえからの神の教え通りであり、まったく非の打ちどころのない説法です。
もちろん、ヨブもそんな話の内容については十分すぎるほど承知しています。
ヨブは自分に課せられたあまりに惨い状態に、思わず神を非難しかけます。しかし、それは神自ら直接答えてもらいたいがための叫びなのです。
ヨブは正義の人です。
いかなる賢人、聖人が登場してきても、その上面だけの言葉に納得しません。彼は、ただ創造主おひとりの言葉だけを期待していたのです。
神への直訴です。
直訴と言えば、私は遠藤周作の沈黙という本を思い起こします。
隠れキリシタンの弾圧激しい時代、キリスト教の布教のために渡来した宣教師の猛烈な心の葛藤を描く名作です。
志をたてて日本に渡ってきたポルトガルの宣教師は、改宗や踏み絵を要求されて拷問や処刑をされる数限りない信者たちの悲惨な光景を目の当たりにします。
心清らかな信徒たちは、磔にされ、突き殺され焼かれ、海につけられ溺れさせられます。それでも、奇跡を信じる信徒たちは命果てる直前まで神を信じオラショ(祈り)を唱え続けます。
宣教師は、いくら神に救いと奇跡を祈るも、非業の死をとげる人々は後を絶ちません。
そんな理不尽極まりないことがあっても、なおも沈黙を続ける神に対し、ついに宣教師は叫びます。
「なぜ、あなたは黙しているのか」
神への直訴です。
以上の二つの話は、私の胸を痛打しました。
「人よ。
わかる、わかる、あななたちの言うことなにもかも。
何を言わんとしてるのか、いかにしてわれを慰めようとしているのか。
その苦慮を私は知る。
しかし、私はもうただ一つのことのみ待ち望む。
ありがたいが、もういい。たのむから放っておいてくれ。
わたしの望みはただ一つ。
それは小さな一つ。
神なるあなたの直々の言葉。
そのひとことに私は反論せずまっすぐに従うだろう。
まぼろしではなく、わが耳に聞こえるように、わたしの目に見えるように。
わたしの手に触れるように。
わたしに分かるように。
現れたまえ。
一瞬でよし。 現れたまえ。
現れて、きみ自らの手でわが頬を打て」
前田比良聖