2014.01.14
第113話 「古事記の世界」
- 古事記は稽古の指針
古事記は、全文が祝詞そのものです。
祝詞とは神前であげられる「祈りの言葉」のことです。
古事記は、神社で奏される、数々の祝詞の内容がすべて記された原文です。
よって、古事記を読むということは、祝詞をあげることと同じであると言えます。
古事記は、語り部、稗田阿礼が神懸りをもって神界のありさまを語り、それを太安万侶が記録した文献です。いわば元祖「霊界物語」です。
その内容は、聖書に勝るとも劣らない、非常に次元の高い霊的な内容に満ち溢れています。
古事記の研鑽により、私たちの魂のルーツを探り、格調高い大和の精神が復活するのではないかと存じます。
稽古とは「いにしえ」を思い考えるという意味です。
わたしたち和良久の稽古の「いにしえ」とは、神代の世界までさかのぼることを言います。
その有様は、古事記の描く世界そのものです。
古事記冒頭に出てくる、以下の最初の一文が「稽古」の目的の全てです。
『アメツチはじめのとき、タカアマハラになりませるカミのみ名は、アメノミナカヌシニノカミ』
アメツチとは何か?
タカアマハラとは何か?
なりませるとは何か?
カミとは何か?
アメノミナカヌシノカミとは、どのような存在か?
・・・以上を実践し、体験することが稽古です。
これは決して頭で理解できることではありません。
もし、物事を頭だけで理解できるのなら、私たちはこの現界に、肉体をもって生まれてはこなかったでしょう。
私たちが体を与えられたのは、五体を通して宇宙の神秘を探るためです。
これすなわち、創造主なる神の存在を知り、神の力を世に示すためです。
- 古事記は日本精神の支柱
古事記を、意味不明で神話や作り話に過ぎない、偽書だと批判する学者もいます。
確かに、古事記には現実には有り得ないような、不思議で神秘な内容に満ち満ちています。
しかし、その内容の真偽は別にしても、確実に私たち日本人の精神の支柱になっていることに間違いはありません。
もし古事記という書物がなかったら、この日本は霊的な文化を構築出来なかったでしょう。
何より、私たちが稽古する和良久は、古事記なしには、その理念と技術をまとめ上げれなかったでしょうし、何より、この世に登場することはありませんでした。
和良久の実践的な技術と、霊的な世界観を表す稽古体系は、いままでの稽古における解説と古事記の内容が中核となっていることは皆様もご了解いただけることと存じます。
実際に、和良久が、こうして目にもの見せる技として皆様の前に顕現させることができたこと・・・これが古事記の内容が決して作り話ではないということの証です。
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言霊の力が消え文字が出現
さて、古事記は「やまとことば」で描かれているため、源日本人のもつ特有なリズムというものを残しています。
つまり、古事記が編纂された1300年当時の音が、そのまま残っているのです。
いや、稗田阿礼に神が懸かったとなれば、むしろ古事記は神代の息吹が、そのままに保存されている「言霊の書」と言えるでしょう。
そして、古事記を音読することによって、少なくとも古事記がつくられた時代、もしくは神代にタイムスリップすることになります。
最近、スピリチュアルブームも手伝って、古事記を今風に訳したものも多く出回っています。しかし、古事記が言霊の書である以上、原文そのままの音で味わうことが重要です。
ただし、古事記は漢文で書かれています。
非常に読みにくいので、ひらがな混じりに翻訳されたものを選んで、読まれればよいと存じます。
実際、稗田阿礼にしてみれば、古事記は「語り継ぎ」すなわち音で残したかったのではないかと思います。もし、当時にボイスレコーダーなどがあれば、きっと音を残したことでしょう。
古事記の研究に、生涯をかけた本居宜長は言います。
「 仮字文といふことはなかりし故に、書はおしなべ て漢文に書るならひなりき。
そもそも文字書籍は、もと漢国より出たる物なれ ば、皇国に渡り来ても、その用ひやう、かの国にて物をしるす法のままにならひて書キそめたるにて、こゝかしこと、語のふりはたがへることあれども、片仮字も平仮字もなき以前は、はじめよりのならひのまゝに、物はみな漢文に書 たりし也。
仮字文といふ物は、いろは仮字出来て後の事也、いろは仮字は、今の京になりて後に、出来たり。されば古書のみな漢文なるは、古への世のなべ てならひにこそあれ。
後世のごとく、好みて漢文に書けるにはあらず」
本居宜長は、古事記編纂当時は、文字といえば漢字しかなく「やむなく漢字を使用せざるを得なかった。好きで漢字を使ったのではない」と言っています。
言霊の幸はふ国、言霊の活ける国、言霊の天照る国と言われる日本です。
日本は本来、文字に頼らない、言霊のみで充分事足り得ていた国でした。
音だけでコミュニケーションをとっていた・・・日本は、それほど精神的レベルが高い文明を築いた国だったのです。
文字や書物の導入は、隣国から取り入れたもので、いわば借り物です。
では、なぜ、文字や書物が必要となったのか?
それは、ひとことでいえば、人々が神の存在を忘れ、あらゆる物事に対して証拠を求めるようになったためです。
聖書には「今の時代はしるし(証拠)を求める」と書かれています。
人々は形がないと信じない、証拠がないと信じない、よくぞここまで心が見えなくなった時代になったものだ・・・とイエスも嘆いています。
人心荒廃とともに言霊の力が消え、以心伝心という、心通いあう通信手段も使えなくなり、人が人を平気で欺くようになり、約束を守らない世の中が現れたのです。
それで、やむなく文字という証拠に頼らざる得なくなり、今日に至ります。
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古事記編纂の時代まで生きていた言霊
古事記の時代まで、まだ言霊は辛うじて生きていたといわれます。
しかし、やがて時の心ある人々(聖の集団〜光の民ともいう)は言霊の力は消え去ることを予測され、真実が葬られることを恐れて編まれたのが古事記なのです。
古事記とて、その書が抹殺されることが予測されますので、ストレートに言霊の法則を述べることは控え、言霊の法則をちりばめつつも内容を寓話的に表現し、言霊封印の手からうまく逃れています。
時がたてば、古事記の真実に迫るものもあらわれてまいります。
本居宣長は「道を知らんためには、殊に古事記を先とすべし」と言われています。
その、突拍子もないと思われがちな内容に言霊の法則をもって解読を進めていくと、古事記は、宇宙創造の様子をはじめ、驚くべき未来の予言警告の内容であることが分かります。
古事記は奇跡の「言霊の書」であり、永遠不滅の言霊の力を表現している書です。
古事記編纂より1300年が経った現在においても、時空を越えてなお古事記の言霊は生きています。
私たちがどのように生きていけばいいのか、何に向かっているのか、意味不明ながらも音読をいたしますと、その音律の波により、私たちの魂の琴線に何か響いてくるものがあります。
これは「やまとことば」のもつ神秘だと思います。
声に出して読むことにより、1300年前の昔の波動が蘇り、さらにそこからタイムスリップして神代にまでさかのぼることが可能になります。
私たち人類は、確実に「そこ」からきた者であることには違いはありません。
肉体は、いまの時代にあっても、魂は、はるか遠い、澄み切りに澄み切った真っ白な時代に帰ることができます。これが「いにしえに帰る」こと、すなわち稽古だと思います。
心が荒んでも、体は汚れても、私たちはいつでも「つくしのひむかの たちはなのおどの あははぎがはら」において禊祓いを行うことができます。
稽古でみそぎ祓いを行い、身も心も清々しくなったとき、私たちは一体何に向かっていけばよいのかが見えてくるのではないかと存じます。