2014.03.10
第117話 「四つのたましひ」
ローマから失礼いたします。
言霊五大父音の意味につき、参加者から質問を受けました。こういったことに、参加者みずからが興味をもってくれるというのは嬉しいことです。
アは幸魂〜愛、オは和魂〜親、ウは直霊〜省、エは荒魂〜勇、イは奇魂〜智。
などと、いつものような話を出来るだけかみくだき、ヨハネの福音書などを引用しながらお話いたしました。
そして、それにともなう力の存在「八力」と、凝解などの力の名称の意味もお話ししました。
かように、言霊は心と体に具体的に影響を及ぼしていることを知った彼らは、その後の技の稽古に、より素直に法則に従おうとする姿勢が生まれてきました。
なぜ合掌するのか、なぜ拍手するのか、なぜ姿勢を正すのか、なぜ神を思うのか、神はどのようにして私たちを守るのか。私たちは何に向かっているのか。そして、なぜ螺旋なのか。
すべての答えは言霊にあり、またそれを学ぶのは座学では不可能であることを伝えました。
世界中の国により言語は異なります。
しかし、世界中の人の五体は同じ構造です。
世界中の文化は国により異なります。
しかし、世界中の人としての命の法則は同じです。
言葉〜言語は大切ですが、限界があります。
行動によるものなら無限です。
そして、それは頭での考えには限界があるということです。腹で思わねば本当のことは身に付きません。腹で思うとは、行動せよ(腰を入れる)と言うことです。
聖書にいいます。
「言葉ではなく行動で、私の生き方、私のあなたへの愛が目に見える形となって、あなたにあらわれますように」
神はその御心を、体験を通してこそ伝えられるとおっしゃっています。
さて、力(八力)をコントロールするすべての四魂は、ウ、すなわち一霊(直霊)を中心として成り立っています。
神じきじきの霊魂である直霊あるがゆえに人(ひと〜霊止)と言えるからです。
そして、四魂は単体ではなく、四つの魂がワンセットで存在します。一霊四魂(いちれいしこん)という名称は、分かりやすく言えば「人(一霊)の心(四魂)」ということです。
例えば、幸魂である愛がはたらくとき、まず直霊が「これは本当の利他的な愛なのか」と診断します。そして、それが本物であると直霊が判断したときに、他の和魂、荒魂、奇魂が幸魂に融合され、活動を開始いたします。
人が人である間は、一霊四魂はひとつのものとして、はたらきます。
愛というもので例えるなら、愛は、直霊を基盤として、親と勇と智の三つの魂があるゆえ愛なのです。他の霊魂も同様です。
つまり、愛であれば、愛というのは、よく省み、よく和し、よく勇み、よく考えるゆえ愛の心が成立するということなのです。
ですから、健全な人の魂には、いわゆる幸魂の人とか、和魂の人という単体の構造はありません。人を四魂の区別をもって分割するというのは、肉体をパーツ別に扱う西洋的な考え方です。
スポーツのトレーニングにしても、西洋式ですと、腕を強くするならこの器具をつかって、このように動かす。足を強くするなら、この器具でこのように、というように運動を部分別に行います。
本来の日本の武道では、こういった部分的鍛練はよしとしません。
すべて全身は、腰を中心に動いているとし、中心の軸の強度をあげることを大切にしています。腰が強くなれば、全身が強くなるというものです。
心もそうです。
本来の心を取り戻すには、心の軸である直霊にはたらきかけてまいります。つまり省みることが最重要課題ということです。
中心よければ円周が整い、すべてが円くおさまるのです。
これは、ひとつの神はやほよろずの神となり、やほよろずの神はひとつの神に帰るという「一神即多神、多神即一神」という、日本神道の思想に由来いたします。
しかし、四魂を四つ別々にわけて考えるということは、人ではなく動物であれば当てはまります。
動物は、人〜霊止ではないので、直霊はありません。四魂もすべてそろわず、時に生存本能によって現れる単独の霊魂が表にあらわれる程度です。
例えば、動物にも自分が生き残るために自分の家族を愛する幸魂があります。また、自分が生存するために他の生き物の命を奪う荒魂があります。
また、自分が生き残るために仲間とつるむ和魂があります。また、自分が生き残るために狩りをする技術を駆使する奇魂があります。
動物は自分が生きるという本能だけで生きています。
つまり、利己的、自己中心的な存在です。
人が、生きること、それさえも放棄し、自分自らの手で命をたつということは動物以下です。
また、自殺だけでなく、自分の利益だけのために他を傷つけ、人のものを奪うということは、その者は動物なみと言うことです。
人に対し、あの人は幸魂の人だというとき、その人は行き過ぎた愛、つまり我執に満ちた人ということになり、決して誉めた言葉にはなりません。
人は一霊四魂の構造、すなわち心が崩壊したら、同時に肉体をも崩壊させます。気持ちが萎えたら、体も衰弱するのです。
傷つけるということ、それが自分に対してか、他人に対してかの違いだけで、結局は同じ心理がはたらいているといえます。
私たちは、一霊四魂まったき者として、直霊をもって常におのれを省み、ひとを四魂をもって分類することなく、ひたすら「ス」なる神にむかって、神と合一すべく精進すべきと存じます。
サンジョバンニ聖堂を拝して記す