2014.04.07
第119話 「人生という修行」
百日あるいは千日の修行を積んだと言う方がいます。
そして、極意を会得したとおっしゃいます。
残念ながら、期間限定で身に付くような、そんな浅い芸事はこの日本にはありません。
時に、世の中にはセミナーというものがたくさんあります。
これこそ単なる講習会であって、決して修行という類のものではありません。講習会で知るのは、ただ「修行の方法」だけです。
修行は、行いを修めることです。
行いとは、形を通して真理を探究することで、形を形成するに必要な力の作用、すなわち「凝解分合動静引弛」の八力運動のことを言います。
その八力は人間の体の軸になる腰によって稼働します。
そして八力を行う過程において、心(魂)の形成も同時進行で行われます。
以下のごとく、魂は、八力によって明確に四つに振り分けられます。
凝解〜幸魂、分合〜和魂、動静〜荒魂、引弛〜奇魂
この四つを四魂といいます。
四魂の統合は、自動的に一霊(神の御心〜直霊)の存在を自覚させ、人は敬虔な気持ちとなります。
このように、心は、体の動き〜すなわち体験を通して深い影響を受けます。
激しく動けば激しい心、やさしく動けばやさしい心、繊細に動けば繊細な心を育みます。
本田霊学にも「八力はよく四魂の強盛をます」と教えられています。
そうしますと、人には、やさしさ、強さ、まろやかさ、繊細さなど・・・偏りのない心を育むには、多くの動き、すなわち体験をせねばならぬことになります。
私たちの動きは、大きくは「前後、上下、左右」の三つに分類されます。
そして、この三つに心の作用を見出すとしたらこうなります。
前後は、基本となる身体の移動。
上下は、激しく強い「振り」の運動。
左右は、やさしく穏やかな「揺れ」の運動。
しかし、これらはそれぞれ独立してなされる運動ではなく、相互に作用しあって成り立っています。
たとえば、前後運動は、上下と左右の運動をともなってこそ成り立ちます。
同じように、上下運動は、前後と左右を、左右運動は前後と上下の運動あってこそ成り立ちます。
こう考えれば、本当の運動とは、ぎくしゃくとした動きではなく、前後上下左右の運動がひとつになったものなのではないかと存じます。
前後上下左右がひとつになったもの、それが螺旋運動です。
ようするに、魂を練り鍛えるには、肉体をもって体験を重ねるしかないのです。
そして、何より大切なことは、体験によって得たものごとを、より熟成させるには時間が必要だということです。修行は気の遠くなるような時間とのつきあいです。
たとえば、種を土に植えて芽吹く日を待つように。
酒をつくるにも、うどんをつくるにも、手間暇をかけて後「寝かせ」て熟成するのを待ちます。何事も「時」という魔法は不可欠です。
人生という修行には、努力して進める人為的なところと、努力してもどうしようもない天の運まかせのところとがあります。
天運循環といいますが、大いなる力が循環してくる時まで、ただ何もせず待つのではなく、飽くことなく一生懸命努力を続けることが修行だと思います。
繰り返しますが、修行をおこなうこと(人生を過ごす)とは手間暇をかけることを惜しまぬことです。それは「ローマは一日にしてならず」で、真剣に修行というものに向き合えばわかることです。
人生はすぐに壊れる映画のセットをつくるようなものではなく、永遠に残るようなしっかりしたものをつくる過程にこそ価値があると思います。
焦ることなく日々謙虚に修行に励む。
その過程にこそ、本当の意味があるのではないかと思います。