2014.04.21
第120話 「いまこそ大切なとき」
人の世界は、結果を大事にします。
神様の世界は、プロセスを大事にします。
ここに、二人の若者がいます。
Aはビジネスマン、Bはスポーツマンです。
Aは社長に報告をしています。
「ご覧ください。私は、今日、これだけの売り上げをあげました」
Bは監督に報告をしています。
「わたしは、今日の試合でみごと優勝しました」
Aの社長
「おお、よくやった、さすがだ」
「それでは、きみに褒美をあげよう。そして私の横に座りなさい」
Bの監督
「よくやった、きみはみんなの英雄だ。君には特別の権威を授けよう」
人の世界であれば、よい成績をあげた者たちに対し、このように間髪をいれず手放しでほめたたえます。
しかし、神様の世界は違います。
「ほお・・・頑張ったんだね。では聞こう」
「あなたはどのようにして、そのような大きな売り上げをあげたのか」
「あなたは、どうやって試合に勝ったのか」
そして言葉を交わすことなく、神様は、相手の心の中をそっと覗かれます。
しばらくして、顔色を曇らせておっしゃいます。
「なに?お客さんに、そんな嘘をついて売り上げをあげたのか」
「なに?そんな汚い手をつかって試合に勝ったのか」
神様は、怒りに震えながら・・・
「いますぐ、お得意さんのところにいって、しっかり謝ってその売上金を返してきなさい」
「いますぐ、その優勝トロフィーを返し、試合をしたすべての人たちのところへいって、あなたが行った卑劣な手段について謝罪してきなさい」
そして、なお、言葉をつづけられます。
「あなたは、わたしのそばにくることは許さない」
「わたしの怒りの手ががあなたに下る前に、わたしの目の届かないところに行きなさい」
また、同様に成績のふるわなかった者に対しても聞きます。
「あなたは、成績がよくなかったが、それはどうしてかな?」
「あなたは、試合に負けたが、それはどうしてかな?」
神様は、相手の心の中をそっと覗かれます。
お得意さんの家では病気で寝ているお父さんがおり、営業をする間もなく、その看病の手伝いやら、家の掃除まで手伝っている姿が見えます。そして、気が付いたら遅くなってしまった・・・という情景が見えました。
次に、試合に出ていた者の心の中をみると、実力があるにも関わらず、相手に怪我をさせぬよう計らいながら、遠慮がちに動く姿が見えます。そして、あっという間に試合時間が終わりました。
神は言います。
Aには「あなたは、莫大な売り上げをもたらした」
Bには「あなたは、本当の優勝をしたのだ」
そして、嬉しそうに言葉を続けます。
「わたしの右に座りなさい。ここは、あなたのためにとっておいた席だ」
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わたしたちは、何かをなすときに期待をします。必ず見返りを求めて行動します。
「これをやったのだから、きっと人はわたしを褒めてくれるに違いない」
「これだけ頑張ったのだから、きっとたくさんの褒美をもらえるに違いない」
「これだけ練習したのだから、きっと優勝できるに違いない」
「こちらがあいさつをしたのだから、きっと無愛想なあの人も挨拶をするに違いない」
「これだけ善や徳を積んだのだから、きっといいことがあるいに違いない」
「これだけ神様を拝んでいるのだから、きっと神様からたくさんのお陰をいただけるに違いない」
このように、わたしたちは毎日、「こうすれば、こうなるに違いない」と勝手にストーリーをつくり、先を見ながら計算高く生きています。つまり、いつも何かに「期待」しながら日々を送っているのです。
それで、多くは期待にそわない結果となり、失望落胆します。
それどころか、「なんで、これだけのことをしてあげたのに、あいつは褒めてくれない?」「なんで、これだけ練習したのに、俺に幸運がまわってこない?」
「なんで、わたしの方から丁寧に挨拶をしたのに、あの人は挨拶をしない?」
「なんで、これこれだけ良いことをしてきたのに、わたしにはいいことがない?」
「なんで、これだけ働いたのに、これっぽっちの報酬しかない?」
なんで?
なんで?
なんで?
わたしたちは、約束したわけでもないのに、勝手に期待し、勝手に失望している状態をほぼ毎日体験しています。
「わたしは、これだけのことをやったから、これだけの見返りはあってもいいはずだ」
この言葉をもっと正確に言いかえると「わたしは、これだけのことをやってあげたのだから、あなたは礼(報酬)を言わなければ(払わなければ)ならないのだ」
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何かをおこなうとき、「行いたいから行う」という、おさな子のような気持ちが大切な気がします。
神は、見えぬものを見る方です。下心をもって行うことを嫌われるお方です。
例えば、子供が遊んでいます。それを見ると、わたしたちは、ただそれだけでとても可愛く思え、とても幸せな気持ちになります。なぜでしょうか?
子供は自分が可愛いと思っていないからです。
ただ、何も考えず無邪気に遊んでいるからこそ可愛いのです。
もし、子供自身が「わたしはなんて可愛いのでしょう」「わたしの可愛い姿を大人たちに見せてあげたらきっと彼らはわたしを褒め、たくさんご褒美をくれるに違いない」などと意識して、役者のように遊ぶ行為を演技していたとしたらどうでしょう。
このような下心をもった者は、たとえ子供であっても決して可愛いとは言えません。
私たちは「ただ遊びたいから遊んでいる」という、子供たちの無邪気な気持ちに共鳴し、深く感動しているのです。
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何かをなすとき、見返りを求めず、期待をせず、ただ「やりたいからやる」という気持ち。これは大切ですが、もう私たちのように、かなり歳をいってしまってからでは、いろんなことを知りすぎて、純真な状態になることはかなり困難です。
しかし、ただひとつだけ方法があります。
「すべては神の御心において」という心構えと、それをゆだねるに値する「大きすぎるほど大きな計画」の中に自分自身が身を置いている状態であることです。
いまの私には、とても表現できるほどの文章力は持ち合わせていませんが、例えば、私たちには「天津宮言」というものがあります。
これのもつ霊的意義は、私たちの秤では測りきれないほど大きな存在です。大き過ぎるゆえに、わたしたちの小さな知恵や力ではどうしようもないということを、わたしたちは稽古を通して身をもって知っています。
そして、ひたすらこの法則に心と体を預ける以外にないことに結論を見出した時に、その先にある広大な宇宙空間のような、掴みどころのない、ふわっとした無限の世界に至ります。
その世界の住人になったとき、一切の抵抗は無益に帰すことを知ります。そこで「すべては神の計画のもと、なるようになるのだ」という前向きな「あきらめ」がきます。
世界の平和のため、人類の幸福のため・・・思えばこれもおこがましいことかもしれません。
そんなことも意識せず、ただ与えられた毎日を、稽古を、人生を輝いて生きていくだけなのではないかと思います。
法則そのもの(神の計画、神の摂理)に従う人生に身をおいた以上、「これから一体自分は、人類は、世界はどうなるのか」などと案じることは、私たちのすることではありません。
怒りも、その報復も自分がおこなうことではなく、すべて神が行うことと知ったなら、自分の行うことは、闇に向かず、光に向かって明るく楽しく、淡々として歩いていくだけです。
何をするにも、言うにも、考えるにも自分をなくすること。
結局、釈迦が言われた言葉につきます。
孤独に歩みなさい。
悪いことはするな。
求めるものは少なくあれ。
林の中にいるゾウのように。
一言でいえば「アホ」になることでしょうか。
出口聖師は「アホ」になることの素晴らしさを説いておられます。
以上、今回もまとまらぬ文章となってお許しください。