2014.07.08
第125話 「超える」
1,習うより慣れろ
天津金木、天津菅曽、天津祝詞など「天津宮言」の稽古をはじめ、言霊の歌や天津宮言経などによって、ますます和良久稽古の基礎固めが進んでまいりました。
道場建立や稽古人の数など、組織的には、何ら進捗のない和良久ですが、こういった最も大切な内容の充実については、満足すべき高い水準に達しつつあると自負しています。
これも神様と皆様とのお力添えあってのことと心から感謝しています。
稽古の基礎が固まってまいりますと、建築と同じで、いよいよ基礎の上に建物の形が現れてまいります。私たちの申します形とは、すなわち75剱の技のことです。
これが昨今、急速に進んでいますことは、私自身も驚いている次第です。
思えば不思議なものです。
ほんの数年前までは、これは難しくて出来そうにないと躊躇していたものが、いまは何と普通に日々の稽古で行なっているのですから。
例えば、75剱など、どうでしょう。
そんなにたくさんの複雑な動きは私には無理だ、と言っていた方も多かったのではないでしょうか。
また、あの、天津宮言の表にしましても、意味不明だと棚上げしていた方が、今では、隅から隅まで頭の中に入っているのではないでしょうか。
本当に、日々の習慣というものは恐ろしいものです。
習うより慣れろといいますが、慣れれば、何ともなくなり当たり前になっていくのです。
あの重いと感じた木剱も重くは感じなくなり、いまは平気で振り回しているのではないでしょうか。
頭では難解だと思われた言霊も、いまは体に染み込み、言霊の法則に即した生活を送っておられます。
思えば、それも当然なのかもしれません。
なぜなら出口聖師の言霊は、実地に使えることを目論んで残されたものなのですから。
2,型を超える
言霊は、遠い宇宙の果てのものでもなく、深い海の底のものでもないのです。
いま、生きて動いている私達にこそ活用されるべきものなのです。
言霊即生活。
稽古人の皆様は、稽古を通してそれを実感されていることと思います。
そして、言霊を通してまことの神を知り、キリストを認め、仏陀に共感できる、万教同根の心が芽生えたことと思います。
宗教だけに凝るとは人は壁をつくりますが、言霊を知ると壁を超えます。
言葉は飾れますが、言霊は飾ることの出来ない「心」を伝えます。
当然のこと、浅薄な私には、出口聖師が大本をつくった真の意図は計りかねます。
しかし、宗教をつくったのも、きっと宗教を超えるための単なるステップであったのではと思えるのです。
「超える」ために、壊されると知っていても、やっておかなければならない型というものがあります。
稽古でいつも様々な型をされている皆様にはご理解いただけるでしょうが、型をしっかりと身につけた後、いったん型を壊して自由に技をはたらかせることを行います。
しかし、無意識の状態で自由に動いているように見えても、すべて型で学んだことが生かされているということに気づきます。これが「超える」ということです。
苦心して組み立てた型は、決して無駄ではなく、体全身に染み込んでいるのです。
人生においても、若い頃に様々な経験を積んだがゆえに、いまの自分があることを知ります。
私にしても、今思えば、殺伐とした過去の空手の経験は、決して遠回りではなく、いまの和良久をつくりあげるために必要なものであったと、いまになって感謝の念とともに思えるのです。
3,言霊が可能にする人類最高水準の技
さて、稽古を通じまして、皆様と常に「超える」ことを目指して進んでまいりました。
技の進化は、めまぐるしく、当事者の私でさえ驚いている次第です。
しかし、無理なステップではなく、確実に順序を踏んで前進していることには間違いはありません。この無理のない歩みを段取りしてくださった神に改めて感謝しています。
どうせやるなら、人類最高水準の技を完成させねばなりません。
言霊の理念は、それを成しうるに十分なボリュームをもっています。
とにかくいまは、天から与えられるものは、忘れる前に躊躇することなく、次から次へと行なってみることにします。
余談ですが、私は和良久の理念と技は後世に残したいと思いますが、それは皆さんの心の中に残ればよいと思うのであって、組織として残すつもりはありません。
人というものは、集まればすぐ会社や組織をつくりたがります。
組織が出来れば、権力が生まれ、権力が生まれればお金がからみます。
お金がからめばそれに群がる人たちができ、いつの間にか最初の純粋であったはずの目的がどこへやらに行ってしまい、あとは表向きの取り繕いと裏側の泥沼抗争が残るのみです。
そんな醜い争いは、これまでさんざん見てきましたし、関わってもきました。
それが、純粋な世界といわれる武道や宗教の中でのことですから、そのショックによる落胆の度合いは、本当に計り知れない闇の底に突き落とされたようでした。
一時、私は神を信じる気持ちもぐらつき、信仰を見失いかけました。
そんな時、私を立ち直らせてくれたのが天津宮言でした。
そして、稽古人さんたちの無垢な笑顔でした。
4,先を憂うことなく、いまを大切に
いま私は生きています。
生きている私と、生きている皆さんのつながり。
これがすべてだと思います。
そのうち、私もこの世からいなくなります。
いなくなった後、誰が和良久を継承していくのか?
一体和良久はどうなるのか?
「そんな無責任な」と言われそうですが「どうもなりません」。
あとは、神様が必要とされれば残されるでしょう。
そうでなければ消えていくまでです。
稽古してきた人たちが、この技は残すべき価値あるものだと判断したなら、また奮起して誰かに伝えていくでしょう。
また、稽古人さんたちが和良久の心を理解していたなら、きっと稽古人さんたちは仲の良い家族のように集まり、楽しく稽古を始めることでしょう。
誰が上だとか下だとか、また、誰が偉いとか偉くないだとか言わないで、自然に「集まり」が形成されていく。これが理想だと思うのです。
私がいなくなれば「私が真の和良久継承者だ」とか言う人が、あっちにもこっちにも現れて、罵り合い、傷つけあいなどをするようなことがあったとしたら・・・。
そうなったとしたら、私は「和良久は失敗作だった」ということで決着がつきます。
もし、私がいなくなったあとも、みんなが争うことなく、優しい心を持ち寄って集まるならば、そのときこそ「和良久は成功だ」と、私はあの世で万歳三唱したいと思います。
5,剱の技は編み物のように
稽古の話をします。
天津宮言の指し示す技は、宇宙感覚です。
それはとても立体的で律動的です。
まるで球体が転がるように、途切れることなく転がり続けます。
その技が織りなす姿は、まるで毛糸の玉のようです。
螺旋波動に満ち満ちており、角がなく、無理のない円滑なその動きを見ているだけで、人々は幸せな気持ちになります。
相手と自分の動かす二本の剱が、まるで編み物の針のように絡み合い、紡ぎ出す水火の結びは、暖かいセーターでも編み上げるかのようです。
いろんな人のもつ色とりどりの水火の毛糸が、カラフルな作品に仕上げていきます。
いったい何が編み上がるか。
どうか、そんなワクワクした気持ちで「今日の稽古」を楽しんでください。