2014.08.04
第127話 「一元一義 一元多義」
言霊には次の二つの考え方があります。
1、一元一義
2、一元多義
一元一義とは、これはこうだと言うこと、この意味はこれしかないということです。
一点集中的な考え方です。
一元多義は、これは、ああでもあり、こうでもあるという、多面的な考え方です。
どちらが優れていて、どちらが劣っているというものではありません。
稽古とは、このふたつの考え方を学ぶものと言っていいと思います。
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初歩の稽古においては、まず一元一義、つまり「この技は、このように使います」と指導します。
しかし、稽古が進みますと一元多義つまり「この技はこのようにもあのようにも使います」と指導します。
人生においても、まず、これはこうしましょうという義務を果たすことを学びます。
義務を確実に果たすことが身に付いたなら、次に、権利を主張します。
これと同じです。
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稽古でもまず「型」を習得します。
型の稽古で正しい動き方と考え方が身に付きます。
型が自分の中にあれば、将来、壁に突き当たっても、それを乗り越えられる手段を型に見つけることができます。
型のもたない人はそれがとても困難です。
型は果たすべき義務をいつも思い出させてくれます。
型がしっかり身に着けば、今度は型をどのように使うのかを学びます。
稽古でいえば、組稽古(向かい合って自由に打ちあう稽古)です。
このときは、一生懸命なので型を忘れています。型を外した状態といえます。
「ものごとは型通りにいかない」とよく言いますが、このときの一心不乱な状態は、まさにその通りです。
「型を学び型を忘れる」と昔の人は言いました。
「新陰流兵法家伝書」に興味深いことが書かれています。
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『 様々の習いを尽くして、習い稽古の修行功積りぬれば、手足身に所作はありて心になくなり、習いを離れて習いに違わず、何事もする技自由なり 』
考えられる範囲のありとあらゆる稽古をし尽くして、稽古も、もうこれ以上やりようがないという程までやり、またそれが技術的にも精神的にも高いレベルに達したならば、こう来たらこうしよう、またああ来たら、こうしようというマニュアル的意識は消え失せます。
頭で考えることなく、無意識の状態で体が勝手に相手や周囲の所作に反応して動き出します。
しかもそれは稽古によって培った基本動作からまったく外れることはなくすべて的確に決まりだします。
あらゆる動きが即ち当意即妙なる「技」になるのです。
終いには、何をしても、何を思っても生きて呼吸していること、それそのものが天の意志に通じるようになるのです。
○
そして・・・・
『 この時はわが心、いずくにありとも知れず天魔外道も、わが心をうかがい得ざる也。この位に至らん為の習い也 』
先に申し上げたレベルに達したなら、心は自由に解き放たれ、いかに力ある悪霊、悪鬼、邪神、邪霊などと雖もその者の思うこと、考えることは察知することは出来ず、そのレベルにある者の進む道を妨害することは出来ません。
稽古修行とは、このレベルに達するために行うものなのであり、それ以外の何ものでもないのです。
言い換えれば、稽古により厄難、人災、災難などが寄り付かない結界が形成され、心安く天命をまっとう出来るのです。
稽古をもって心身を清め、鎮魂をなして尊き神の入れ物となり、地上に神の望まれる世界を招来させることが道にある者の努めです。
○
『 習い得たれば、また習いはなくなる也。これが諸道の極意向上也 』
艱難辛苦を経て、稽古によって心技をまったく修得し、自分のもつ限界点を越えて壁を突破しすべての技を身に付けたならば、その思い、その動きは玄人っぽく見えず、むしろ素人の姿に逆戻りしてしまいます。
真の道にあるものは、威張りもせず、また臆することもなく、淡々として一見ただの人にしか見えないものなのです。
人が出来ない技ができるからと言って玄人ぶり、偉そうにふるまっている間はまだまだです。
大衆の人たちが、一見して驚き感動するものには本物はありません。
それは見せかけの姿に惑わされているのです。
真の達人を知るのは、やはり世の艱難辛苦を舐めた、名もない達人のみかもしれません。
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ご承知のように、私たちの剱の動きは直線的でなく旋回します。
たとえば、相手が剱で右方向から打ってきたら、こちらも剱を内回りに回して受けてください。左から来たら、外回りに回して受けてください、という風にこれはこれ、あれはあれという風に動きを限定して稽古をします。
右は右、左は左。
これはこうでなければならない。
今という瞬間は今しかない。
・・・これが一元一義です。
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そして、徐々に、旋回が円滑にまいりますと、動きに膨らみが出てまいります。
技に膨らみが出てまいりますと、今度は、相手が右から来ても、左から来ても、内回り(または外回り)だけで相手の剱を巻き込むことができます。また、同様に、相手の打ちが上から来ても下から来ても、やはり内回り(または外回り)だけで対応できます。
つまり、何が起ころうとも、こちらは、こちらの思うように動いて差し支えのない状態に入ることができるのです。
臨機応変であり、「応用が利く」という状態になります。
右は左でもあり、上でもあり、下でもある。
これはこうでなくてもよい。
今という瞬間は永遠に続く。
・・・これが一元多義です。
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一元一義の稽古は「地球レベル」の稽古です。
地に足をつけて、有限世界の法則をしっかり学ばねばなりません。
一元多義の稽古は「宇宙レベル」の稽古です。
地に足がついたなら、次は無限世界なる宇宙を目指し、次元を高めていくことが大切です。
一元一義と一元多義は不即不離の関係で、同時に存在するものだと思います。
言葉を変えれば「今を大切にし、永遠を見つめる」ということではないかと思います。