2014.09.16
第130話 「場のエネルギーをつくる」
- 水火を合わす
息を合わす…という言葉を、私たち稽古人は「水火を合わす」というふうに「息」の字を「水火」と書いています。
それは「イキ」ということが、ただ呼吸という空気の出し入れだけではなく、命あるすべてのものに関わる広い範囲の意味をもっているからなのです。
水と火というのは、この世に存在するものの代表的なフレーズです。
水と火を、体と心と言っても、あなたと私と言っても、マイナスとプラスと言っても、また右手と左手と言ってもいいのです
この相反する二つのものがぶつかるとエネルギーが生まれます。
たとえば、プラスとマイナスを合わせると電気が生まれ、右手と左手を当てると音がなり、男と女が合わさると子が出来ます。
つまり「二つのものが結ばれて一つのものを生み出す」というのがこの世の法則です。
「ナル〜成る、生る、成る」を成就させるのは、まず「水火を合わせる」という現象から始まるということなのです。
- ナル
この世界は「ナル」ために動いています。
そのために、すべてが常に何かに水火を合わせています。
水火を合わせねば、この世に生存できないからです。
家を建てるのにも、柱と柱の水火を合わせて骨格を組み立て、料理をつくるにも鍋の水とコンロの火の水火を合わせてお湯を沸かし、包丁と大根の水火を合わせて切ります。
服を縫うにも針と生地の水火を合わせ、その服を着るにも服と腕の水火を合わせて着ます。
こうしてパソコンを打つにもキーボードと指の水火を合わせ、ご飯を食べるのにもご飯を盛った箸と口を開ける火を合わせて食べます。
道を歩くにも足と地面の水火を合わせ、電車に乗るときもドアと体の水火を合わせて乗ります。人と話すときも相手の気持ちと言葉の継ぎ目に水火を合わせて話しかけます。
そして、人はより高きを思い、神に水火を合わせて祈り続けています。
このように書いたら切がないほど、私たちはいつも、いつも何かに水火を合わせて毎日を過ごしています。
- 蛍
一昨日、私は九州からの帰り道、岩国の山中でテントを張って一夜を過ごしました。
その場所は心が洗われるような清らかな川が流れ、すぐ目の前には、山がどんと腰を落ち着けるようにして私を見下ろしています。
私は夕刻6時ごろにテントを張り、暗くならないうちに食事をすませました。
山の中のこととて闇はすぐあたりを覆い尽くします。
聞こえるのは川のせせらぎ、蛙や鳥や虫の鳴く声、かすかな風の音、木々の揺れる音。
耳を澄ますと、静かどころか、活気凛々たる命の音で山の中は埋め尽くされています。
テントの中でランプを照らし、寝袋を広げて就寝の準備をしていると、なにやら外が明るくなったり、暗くなったりして明滅を繰り返しているのです。
おかしなことがあるものだ、都会ならネオンでこのようなことは珍しくないのだが、と思ってテントの外に出たらびっくり仰天。
なんと、目前の山が光っているのです。
それはとんでもない大きさのクリスマスツリーのようです。
眼を凝らすと、山全体を覆いつくす光の主は「蛍」でした。
わたし達は、道頓堀や新宿などで光の明滅は見慣れています。
しかし、それはとても冷たくて物悲しい人工的な光です。
私が、いま目前にしているのは蛍たちの発する「命の輝き」です。
時間が経つにつれ蛍はますます集まってきます。
空も明るくなってきたので、ふと見上げますとおぼろ月が柔らかい光を放っています。
今日は九州、中国地方はほぼ雨の予想だと聞いており、覚悟をしていたのですが、それもどこへやら。
目前に現れた幻想的な光景と、様々な生き物たちや自然が奏でる音が見事に複合され、私はこれを見逃すまいと、あっちを見たり、こっちを見たりして、まるで落ち着きのない子供のようです。
こんな特別席、いったい幾ら出せば手に入るのでしょう。きっと、どのような劇場も、どのようなミュージカルもこの現象には追いつかないのではないでしょうか。
- 生きて輝くこと
しばらくして私はようやく落ち着きを取り戻しました。
私は、神様がくださったこの贈り物はきっと何かのメッセージだと思いました。「ああ感動した」だけで帰るのはまことにもったいないと感じました。
私も稽古人の端くれです。それで、稽古人の感覚でもう一度この現象を見ました。驚きました。それは75剱の技のリズムそのものでした。
月の輝き、風の流れ、川の音、蛍の明滅。一見、そのすべてがバラバラであるように思われるのですが、よく観るとみんな水火を合わせています。それも、ただ合わせているだけでなく、接続部分が見出せないほどにつながっています。これは武道の達人の技です。
月は地球に水火を合わせ、その水火を受けて地球は風を起こし、風は水に水火を合わせて流れ、水は蛍に水火を合わせて命を与え、蛍は山に水火を合わせて共生し、そして、その蛍に水火を合わせて深く感動している私がいます。
これら自然にあるものたちは「誰かのために」などと恩着せがましい殊勝なことは言いません。ただ一生懸命生きています。
その、生きているだけで周囲に大きな命の糧を与えているのです。
月は空に、風は空間に、川は大地に、蛍は夜に。おのおの、自分のあるべき位置と役割を心得、そこで最大の「生きる」を行っています。分をわきまえて、精一杯輝くことが調和なのかもしれません。
私たちが技を行うとき、まず自分自身の心と体の水火を合わします。次に、剱と水火を合わせます。次に、相手と水火を合わせます。次に、相手の剱の動きに水火を合わせます。そして、こちらの剱と相手の剱の水火を合わせて剱が組まれます。
相手と水火を合わせる前に、まず自分自身の中の心と体の水火が合わなければならないのです。心と体がうまく調和すれば、そこから素晴らしいリズム(螺旋)が生まれます。
そのリズムが周囲に放たれ、周囲は感化されます。良いリズムであれば良い影響を及ぼし、悪いリズムであれば悪い影響を及ぼすことでしょう。
稽古で学ぶことは、一言で言えば「生きて輝く」こと。そういうことを学んだ気がしました。
空や山や川、そして木々や生き物などの自然が造りだした姿は天津金木であり、その動きは天津菅曾であり、その音は天津祝詞です。
- ともに風を吹かせる
稽古における組稽古では「打方〜うちかた」と「仕方〜つかいかた」に分かれて稽古を進めています。これも自分と相手が「水」と「火」の関係だからです。
この時に、たとえば4〜5人が前に出て「仕方」をし、後の方たちが「打方」をつとめます。
打方の発する「打ち」の勢いが、仕方の「受け」に加わって勢いを増します。
そして、自力と他力が融合されて、ますます剱の旋回は強く速くなり「打ち返し」となって発射されます。
これは風が風車を回し、水が水車を回すがごとくです。
打方は「他力」と考えていいでしょう。その他力を受けて自力に勢いがつくということです。
その打方ですが、もっと勢いを増す方法をもって稽古をさせていただきます。
4〜5人並んだ稽古人が、各自、好きなタイミングで打つのではなく、5人全員が一斉に剱を打つのです。
また、仕方のほうも、その一斉放射に対応して、一斉に受けるのです。
いままで一対一でおこなってきたことを、みんなで行うのです。
例えは悪いのですが、これは戦国時代の、数万の軍勢と軍勢の戦と同じです。
兵士の足並みが揃わないで、個々がバラバラで戦う側と、息を合わせて一斉に攻防する軍勢とどちらが強いかを考えれば、その命運は一目瞭然です。
もちろん、個々の資質の高いことは不可欠ですが、それだけでは戦に勝てません。
そこに「勢い」がなければ神風は吹かないのです。天が味方するかしないかが運命の分かれ道なのです。
一人では怖い辛いと思っても、大勢がつくる勢いはそれを超える何かを秘めています。
よく「勢いに乗る」と言いますが、勢いはまるで風のようです。
風が吹けば雲は動き、船は走り出します。
場が生み出すエネルギーとでも申しましょうか、場が盛り上がれば人も元気になります。
場が沈めば人も元気がなくなります。
例えば、聖地や神社には場のもつエネルギーが優れている(負の力があるところもあるので注意が必要)ところが多いので、そこへ行けば心と体がリセットされ落ち着きを取り戻します。
稽古は、稽古人と稽古場の水火を合わせると、より効果が高くなります。
5人並んだら、「よし行くぞ!」と声はかけませんが、気持ちを合わせて打ちを放ちます。
また、受ける方も「来たぞ、迎えうつぞ」と気持ちを合わせて受けます。
このように「打方どうし」と「仕方どうし」の二手に分かれて行う合戦のような感じで組み稽古を行います。
いままでは、向かい合う相手だけに水火を合わせてきましたが、今度からは正面の相手だけではなく横に居並ぶ同士たちとも水火を合わせて動きます。
左右に水火を合わせ、前に水火を合わせるのです。
長ずれば、上にも下にも、また後ろにも水火を合わせます。
360度に水火を合わせることが宇宙感覚だからです。
稽古により地球から宇宙空間に飛び立ち、次元を進化向上させるのです。
並び方ですが、前に仕方が5人出たら、まずそれに相対して打方5人が向かい合います。
あとの方たちは、正面に向かって右端に一列に並びます。
5人が一斉に打ちを終えますと、やはり5人一斉に左へずれて移動します。
打方の一人が外れて、打方が右端から新たに一人加わります。
打ち終えた人は、下がって右端の列の最後尾に行きます。
また、新たなメンバーを加わった打方たちは、やはり水火を合わせて一斉放射いたします。
「よし、一緒に行くぞ」「おう!」と意識で通じ合える仲は素晴らしいものです。
水火を合わせることは力を合わせることでもあると思います。
- 静かな「つわもの」たち
ある侍たちの話をします。
主君が討たれた藩がありました。
仕えていた者たちの心にあるのは仇討ちです。
普通なら「よしみんなで仇討ちしよう、みんなでやれば成功する」と、早速策略を労して人集めを始めます。
しかし、そこは知恵と技に優れた武士たちが集まる藩でした。
武士たちは騒がず慌てず葬儀を済ませ各自自宅に帰ります。
ある侍は、夜半、そっと家を抜け出します。
肩には襷をまわし腰には大刀を帯びています。
その侍は、誰にも相談せず、誰の力も借りずに一人で仇討ちに向かっていったのです。
藩の者たち大勢とこれを行えば、藩は取り潰し、お家断絶は免れないことになります。
「全責任はわれ一人が取る」という覚悟なのです。
ところが、しばらく歩いていくと路地で人の気配がします。
こんな時間に誰かと注意深く見ると、同じ藩の侍です。
「おぬしか」「うむ」 「おぬしもか」「うむ」
ただそう言いあって苦笑いして歩み始めますと、また途中で同じ道を歩く者がいます。やはり同じ藩のものです。
「おぬしもか」「うむ」と言い合い、歩いていくと、また侍の姿があります。
こうして気がつくと藩の侍全員が揃っているのです。みな無言です。
真のつわものは一人で大事を行います。
卑怯者は仲間を募って道連れをつくります。
- 神ながらの集まり
スサノオノミコト、ヤマトタケルノミコトもすべての責任と危険をその身に負って行動しました。武を志すものならば、いえ、日本人であるならば、この神たちに学ぶべきです。
行動を起こすのは、個人の思いからです。
正しい者の思いは神に通じているため、天が力を貸します。
天は、同じ思いをもった者たちに天命を下します。
それで、人と人が相談をすることがなくても、期せずして志を同じくするものは集合して力を集めるのです。
志高いものにチームプレイは存在しません。
ただ、同じ思いがはたらいて、自然発生的にチームワークが結成されるのです。
これこそ本物の集団です。
人と人が謀議を凝らして集まった集団は「人ながら」の集団です。
個々に高きところに心を置く者たちが、心のままに集まった集団は「神ながら」の集団です。
人が集めた人ながらの集団は、人の労した策略で崩壊します。
しかし、神が集めた神ながらの集団は、神以外に誰も潰すことは出来ません。
これはいまの稽古人さんたちと同じです。
自分の意思で和良久を志、自分の意思で毎日稽古を続けています。
そして、志を同じくする者が期せずして集まり技を練っています。
剱を打つ時も、受ける時も、すべて自分の判断ですが、稽古をともにやっていこうと言う志はしっかりつながっています。
一人で歩くのは大変ですが、心を同じくするものがいると頑張れます。
たとえば、渡り鳥のように、長い距離を飛ぶようなものです。一羽では勢いがでません。気流にも乗りにくいでしょう。大勢の仲間がつくり出すエネルギーが一つになって、群が一つの生き物に変ずるのです。
それは、魚の群も同じです。数百の鰯の群なども、まるで一匹の巨大な鯨のようです。しかも、不思議なのが、あれだけの集団にも関わらず一糸乱れずに自由に動けるということです。
急に方向を変えても、まったく乱れることはありません。
この鳥や魚は、いったいどうやって意志を通じ合っているのでしょうか。
これは虫や獣、そして草木などもそうです。
先ほどの侍の話と同じで、自分の意志は集団の意志であり、集団の意志は自分の意志という、水火を合わせるゆえの奇跡でしょう。
これは「神ながら」という、すなわち神の声に従って生きるということに尽きるのではないかと思うのです。
生きるとは、すなわち「ナル」ことです。
ナルを学ぶことが「矛の道」であり、その矛を動かすのが言霊です。