第133話 「宇宙オーケストラ」2014.11.03
八力についてもう少しお話します。
押したり引っ張ったり。
持ち上げたり下ろしたり。
切ったり挽いたり。
前回、こういった全身全霊で渾身の力を振り絞って労働する様子が八力と述べました。
スポーツや武道など、あらゆる運動においても、力が極限に達したときの状態を観察してみると、これ、やはり八力になっています。
野球でピッチャーがボール投げた瞬間。それをバッターが打った瞬間。飛んでいったボールをキャッチする瞬間。
バスケットでパスをした瞬間。パスを受けた瞬間。シュートした瞬間。
テニスでサーブした瞬間。それを打ち返した瞬間。
サッカーでボールを蹴った瞬間。水泳で水をかいた瞬間。陸上の100メートル走でスタートする瞬間。ゴールを切る瞬間。バレーボールでトスをあげた瞬間。それを相手コートに叩き込んだ瞬間。
弓を構えた瞬間。放った瞬間。
空手においては、相手の突きや蹴りを受けた瞬間。そして反撃した瞬間。
柔道においては、投げた瞬間、押さえ込んだ瞬間。
このように、例えたらきりがありませんが、人が最高のパフォーマンスを発揮させたその瞬間、人は必然的に「凝、解、分、合、ウ、動、静、引、弛」のいずれかのポーズになっています。
また、こういった爆発的な力を発揮したときに、人は思わず知らず声を発します。
動くということは音が生じることです。
それは当然のことですが、必ず「アオウエイ」のいずれかの音に属しています。
私たちがおこなっている「八力の型」は、それらのポーズをことさら意識し、大げさに行っているものと思っていただいてよいと思います。
ただ、動きをゆっくりと大きくやっており、また、声もクリアに発音していますので、何か特別なものと勘違いされがちです。
和良久の稽古は、曖昧であった人の行動を仔細にクローズアップしているだけに過ぎないのです。
ですから、八力は決して特別なものではなく、万民共通の行動原理だと思います。
ただ、普段の行動の中において、これは凝だとか、これは静だとか限定することは困難です。なぜなら、八力は瞬間の通過地点のようなもので、凝と思った瞬間にすでに解やら引に移行しているからです。
すべての動きは螺旋して止まず、自然のリズムを醸し出しています。
私は、八力をゆっくり行って初めて力のルーツを知りました。
次に75剱を行って瞬間に現れる八力の偉力を実感しました。
そこで、初めて「力とは人類共通の原理」であることを知りました。
神は、全世界の人が同じ法則を共有できるように、同様の肉体を与えました。
頭が一つ、胴体が一つ、腕が二つ、脚も二つ。これは地球基準です。国により異なることはありません。ですから、人が作る道具も世界中で共有できます。
たとえば、イタリアの人が作った服は日本でも着ることが出来ます。
もし、イタリア人の腕が三本で、日本人の腕が五本だったら、服はその国のものでしかなくなります。アメリカ人の眼が三つで、イギリス人の目が一つだったらメガネは輸出できません。
国の地域により何もかもが異なるように見えますが、体のマックスの使い方は100パーセント同じなのです。それが八力です。
これは声も同様です。
国によって音の並べ方は異なりますが、その声の出し方におけるマックスは100パーセント同じです。それが75声です。
音楽にもジャズ、演歌、クラシックなど、様々なジャンルがあるように、国によって体や声を出すリズムが異なります。しかし、根源は同じなのです。
和良久は、神が示したマニュアルに沿って稽古を進めています。
ですから人類共通の稽古なのは当然なのかも知れません。
この世はまるで音楽ホールのようです。
神は作曲し、指揮をされます。
神の五線譜はアオウエイです。
この五線譜に八力の音符を書き込みますと、一霊四魂を表現する旋律が生まれます。
私たちは肉体と言う楽器をもってリズムを奏でます。
私たちは宇宙楽団の一員であり、それぞれの音を担当している者の一人です。
神が私たちに生を与えたのは、わたし達一人一人がこの世において必要な音だからです。
フルートを担当する人、チェロを担当する人、バイオリンを担当する人、ピアノを担当する人、ティンパニを担当する人。
このように、人は、打楽器のような人、管楽器のような人、弦楽器のような人、鍵盤楽器のような人に分けられるような気がします。
もちろん、どれが良い悪いという区別はありません。
どれも必要な音です。どれが欠けてもオーケストラになりませんから。
私たちは毎日、毎日、自分の肉体という楽器を通して、神の指揮するハーモニーに息を合わせ、精一杯音を奏でています。
いい音が出るときもあります。悪い音になるときもあります。
でも、肝心なのは下手でも精一杯鳴らし続けることです。
古事記に書いてあるように「なりなりてなりやまざる」のが私たちの世界なのですから。
「私たちは概ね自分が思うほど幸福でも不幸でもない。
肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ」 ロマン・ロラン