2014.12.16
第136話 「言霊ツルギの始動」
- 私の自慢
和良久の稽古人の皆様には、今日まで非常に難解な理念と技術の習得に取り組んでいただきました。
その信念と忍耐強さに心から感謝いたします。
お蔭様で、和良久は前人未到の領域である「言霊の技化」に成功し、理念の整理を以前に比べ、かなり平易に解けるところまでにようやく漕ぎ着けました。
いまの和良久を、もし奥山先生が生きておられるならどのように感じられるのか分かりませんが、たとえ、和良久が先生の意図されたこととは異なったものになっているとしても、私は今の和良久が大好きです。
いえ、和良久の技と理念よりも、私はむしろ今の稽古人さんたちが好きなのです。
日本を始め海外の稽古人さんたちの、その大らかさ、その笑顔、その謙虚さなどは、私にとって何よりの自慢であり財産です。
- 道を求めてともに歩いて
技術や理念のレベルの高さは、それを行う人の「普段の生き様」を見れば分かります。
技が卓越し、理念が高度だからといっても、それがその人の人生にまで反映しているかといえば、これはなかなか難しい問題です。
例えば、スポーツでも競技の時の技術は非常に優れているが、私生活は乱れている人が多くいます。
また、オリンピックにおいて金メダルをとったと言っても、人格とはまったく関係ありません。
勝つ〜有名になる〜大金が入る〜権力を得る・・・という図式が競技意識を高めているようです。
和良久は、そういった「戦って勝つ」といったものに焦点を合わせず、ひたすら道を追求する人たちによって育まれてきました。
この稽古は、習得してもお金にもならず、社会的地位とも縁がない代物です。
それにも関わらず、いまの稽古人さんたちはひたすら「道」だけを求めて一緒に歩いてくださっているのです。極めて地味であり質素です。
その姿はまさにイザヤ書42に記されてあることと一致します。
「・・・彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声を巷に聞こえさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、信実をもって道を示す・・・」
そして、この言葉には続きがあります。
「彼は、衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教えを待ち望む」
神を信じて忍耐し、競うことなく思いやりをもって謙遜に生きる・・・そういった人は神の導きを得てついに道を確立します。
世界中の人々は、皆さんの、その道の歩き方を知りたいと願い待ち望んでいます。
- 和良久とは?
最後に勝利するのは、物質的力ではなく魂の力です。
私たちは、親(神)から与えられた体を通して親の尊さを知ります。
同じ親をもった人どうし、すなわち兄弟姉妹と仲良くつながることを喜びとします。
それを実践し、その生きる姿を世の人々に見せてくれる稽古人の皆様にあらためて感謝の意を表したいと思います。
「和良久とはどのようなものですか?」
そう聞かれたら、私は「稽古人さんたちと話してみてください」と答えます。
和良久の自慢は、技でも理念でもなく、それらを苦心して学んでこられた稽古人さんたちの生き様です。
「人を傷つけず 人に傷つけられず
人も良く われも良し」
この主旨を実践してこられた稽古人さんたちこそ和良久です。
- 技に心をこめる
先に申し上げましたように、皆様には今日まで難解な稽古に取り組んでいただきました。
音楽で言えば楽譜の読み方と、楽器の使い方を勉強してきたと言うことができます。
しかし、楽譜は読め楽器の音を鳴らせても、音楽にはなりません。
曲に魂をこめ、感情表現が入ってこそ人の心を動かす音楽となります。
海外の人に日本語を教えるとき、「あ」「り」「が」「と」「う」という音を出すことから始めます。
一つ一つの音が出せるようになったら、今度は音をつないで「ありがとう」という言葉を教えます。
次に、その言葉はどのようなシーンで、どのような気持ちをもって使うのを教えます。
「感謝の心をもって話すのですよ」と言うと、「ありがとう」と言う時、顔は笑顔になり、頭も腰も低くなって謙虚な態度になります。
音が言葉になり、言葉が言霊になった瞬間です。
このようにただ「ありがとう」と言っても、感謝の心がともなわないと、それは単なる言葉にしか過ぎません。
和良久の稽古は、今日まで「音の出し方」と「言葉のつなぎ方」を学んできた稽古であったといえます。
これからは、「いかに心をこめるか」という段階に入っていきたいと思います。
- 75のリズム
「ア」の剱は、ご承知のように「凝ー凝ー解ー解」です。
ほとんどの方が間違いなく八力をつないでいくことが出来るようになりました。
しかし、八力という音階を奏でていたとしても、心がこもらねば、それは単に音を出したというだけであって真のリズムにはなっていないということです。
「ア」のメカニズムは「凝ー凝ー解ー解」ですが、「ア」の感情を理解し、それを表現できていなければ、先ほどの例えどおり、それは言葉であって言霊ではありません。
「ア」という音も人により様々です。
低い音、高い音、柔らかい音、厳しい音・・・それは自然現象に言い換えれば、小川の流れるような音、滝が流れ落ちるような音、風のような音、雷のような音、その他例えたらきりがありません。
人も同様に、様々な音があってしかるべきです。
山のような人、風のような人、海のような人、雲のような人。
それぞれに音が違います。しかも、心の持ちようにより、時々刻々変化します。
神様が大自然を創造されたように、人もそのようにつくられたとしか思えません。
75剱の動きについても、それぞれ、ご自分の音が反映した剱の動きとなると思われます。
「アー」と発声して、その音に合わせて動いてみるとよく分かります。
音が途切れがちですと、動きもギクシャクとしています。
音が滑らかに響き渡りだすと、動きも音に合わさって雄大になります。
心が海を思ったなら、技も海のようになります。
心が空を思ったなら、技も空のようになります。
昨日、ウリズンで稽古をしました。
「75剱」を「75声」に乗せて行いました。
まわりの自然と調和し、とても楽しくて、あっと言う間に時間が過ぎていきました。
「楽しく稽古をする」
これはリズムがあるかないかが大きく作用します。
凝ー凝ー解ー解という、ちょっと堅苦しいですが、楽器の弾き方を覚えたなら、次に、その音を楽しむことに入りましょう。
音符が読め、楽器が自由に弾けるようになったなら、きっと音楽は楽しいものになるでしょう。
同様に、「天津宮言」という楽譜を理解し、「木剱」という楽器を弾きこなせるようになったら、次に「言霊」という曲のリズムを表現するのです。
- 神が指揮するオーケストラ
宇宙は螺旋からかもし出される音響の重なりで成り立っています。
生きるとは音が鳴り続けていることです。
音が消えたとき命は終わりを告げます。
人が死を迎えたとき「こと切れる」と言います。
これは心臓の鼓動が途絶えることで、「音が切れた」ことを言います。
こと切れるの「こと」は字を当てれば「言」「事」などです。
「言霊」も当て字であって、本来は「コトタマ」と書きます。
「コト」とは、森羅万象、現象世界などです。
「タマ」とは、霊、魂、玉、球などです。
音の停止は宇宙の運行の停止であり終末を意味します。
宇宙とは「ウ中」で、「ウの言霊」の中であり、「成り生り鳴りて、なりやまざる」世界のことを言います。
音を出し続けることが生きるならば、悪い音ではなく、よい音を出し続けることが大切です。
悪い音とは鋭角波動を発する破壊音です。
これは喧嘩や戦争などで起こるもので、その音の裏には憎悪や嫉妬などの悪魔の心が根付いています。
良い音は、螺旋波動を発する創造の音です。
愛し合う、信じ合う、助け合うなど、調和や平和など、神の心が息づいています。
私は、宇宙とは神が指揮するオーケストラではないかと思います。
神が振るタクトに合わせ、自分が与えられた楽曲と楽器をもって参加します。
そのとき、譜面(魂の法則)が読めなかったり、楽器(体の健康)の音が鳴らせなかったりしたら、宇宙交響曲が奏でられません。
人類すべて楽団の一員です。
その一員として、宇宙の法則を守り、互いを労わりあうことは不可欠です。
私たちは宇宙の旋律を楽しむために生まれてきました。
しかも、それぞれに固有の楽器(体)を与えられて。
言霊の法則を学ぶことは、宇宙交響曲を奏でるオーケストラへ参加することなのではないかと思うのです。
そして、天津宮言を学んだ諸氏には、いよいよ「言霊ツルギ」の始動となります。
75声の言霊を奏して、75剱を演じます。
楽しみましょう。